ある年、イタリアでの国際会議からの帰途、ローマの空港の待合室で疲労困憊の中で乗り継ぎ便を待っていたとき、場内の雑踏の中からBGMの「海に来たれ」というイタリアの曲が聞こえてきた。私は、身体を丸ごと耳にして一つひとつの音を漏らさず聴いた。その時、吹混の仲間達の顔が浮かんできてジーンとなった。この曲は、吹混の演奏会で以前に歌ったことがあった。吹混にいることが如何に人生の潤いになっているかを実感した。
吹混は今から29年前に結成された。吹混というのは、大阪は吹田市の市民がつくる吹田混声合唱団のことである。私はその合唱団の結成時からいる数少ない団員の一人である。
私は二水高では音楽を選択して鴛原先生に教わった。大学時代に小さなグリークラブで歌っていたが、卒業後は合唱から遠ざかっていた。そして、吹混発会式に駆けつけて約20年ぶりに歌ったとき、鳥肌が立った。
吹混では、共に音大卒の夫婦で、夫が指揮を、夫人がピアノ伴奏を務める。両先生ともにすこぶる熱心な指導で、数多くの素人団員を引っ張ってきた。
吹混の活動の中心はほぼ毎年一回開催される定期演奏会である。その演奏会では、吹田市の文化会館の大ホールをほぼ満席の1,000余名の聴衆で埋め尽くす。プロの演奏家でさえこのホールを満席にするのはめずらしいと言われる。吹混がこのような多くの聴衆を動員できるためには、29年にわたる地道な努力があった。それは、プログラムを飾る合唱曲の選曲、構成から始まり、日頃の週一回の厳しい練習の積み重ね、演奏会当日のパワー全開の奮闘のたまものである。厳しいレッスンのとき、何故自分はこのような苦労をしなければいけないのか、自問自答する。9年前に東京へ単身赴任した今も、ほぼ毎週帰阪して練習に通っている。こんな苦労があっても、演奏会が成功裏に終わったときの成就感に浸る度に続けてきて良かったと、感慨を新たにする。
ベートーベンの「第九」。第4楽章の合唱が始まる直前のオケの数小節を聴くとき武者震い。合唱の冒頭で背筋に稲妻が走る。
これまでのステージで、聴衆を涙でむせばせたことが何度もあった。合唱団と聴衆が一体になる瞬間。映画や演劇に勝るとも劣らない音楽のもつ偉大な力を実感する。
吹混が誇ることが1つある。それは、新しい混声合唱組曲の委嘱・初演である。現在までに、生命の尊さ、大阪の風土・言葉、近松文学などをテーマにした4編の組曲を著名な作詞家と作曲家に委嘱し、初演してきた。これらの組曲の楽譜が出版され、今や他の合唱団に歌われるようになり、日本の音楽文化の向上に貢献してきたことになる。
このような吹混の活動は順風満帆ではなかった。結成後数年目に、主義の違いで団員の約4分の1がごっそり抜けるという事件があった。当時の団長を努めていた私は団の立て直しのため、苦難を味わった。
阪神淡路大震災のあった年の夏、吹混はオーストラリアのシドニー・オペラハウスのステージに立っていた。2,700席を埋めた聴衆は日本からやってきたアマチュア合唱団の演奏を奇異な目つきで見ながら聴いていた。日本民謡の八木節は、日本から持ち込んだ木製の樽を指揮者自ら叩き、それに合わせて歌った。満場の拍手をもらった。曲目解説を英語でやっていた私は、マイクに向かって心からのお礼を述べた。地元の合唱団との交流会で、是非とも大阪へ公演旅行においでと誘ったところ、「大阪、地震で怖いね」と冷たい返事。その7年後に、吹混はオーストリアのウイーン楽友協会ホールのステージに立っていた。カラヤンたちの著名なプロ音楽家たちが演奏してきた、あのステージ。本場のミサ曲を歌って拍手喝采をもらった。
吹混は来年30周年を迎える。我が人生の約半分を共に歩んできたことになる。現在までに歌った曲の数は計り知れず、それらの楽譜は書棚の1段をたっぷり埋め尽くすほどになる。それぞれの曲には、歌った当時の思い出が詰まっており、それらを聴く度に当時の楽しくも苦労した情景がありありと頭の中に浮かんでくる。
来年の30周年記念演奏会を控えて再び団長に就任した私は、今や生活の一部として欠かせない吹混で練習に励む今日この頃である。

オーストラリア公演の吹混。背後に貝殻を重ねたようなオペラハウスが見える。(1995年)
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