からたちサロン32
浪漫百選・・・ 満ちくる潮
南部健一(13期)

東北大学名誉教授
文武両道というのはあるが、文理両道というのは稀である。
私は著者のブログに時々現れる短編小説から、「風の盆」の高橋治の浪漫小説を彷彿させられていた。
第1話は塩釜近くの河口付近で出会った女釣り人の話・・・ジーパンに長袖の白いブラウス、野球帽のつばから額に髪がこぼれていた・・・。
読むうちにストーリーの意外性に引き込まれ、眼に見えるような繊細な表現に感心する。・・・科学研究者として長年培った鋭い観察心によるものか。・・・天性の文理両道の才能が晩年に開花したのかもしれない。
(編集者) 高田敬輔)

北川はよく魚釣りに出かける。友人と一緒のときもあるが、たいていはひとりである。気に入った風景の中で、ひとり呆然としていたいときがあるからである。最近はよく北上川へ出かける。
釣りもさることながら、広大な葦原が美しい。葦の丈は人の姿をかくして余りある。晩秋の葦原にひとり佇み風のさやぎに身をまかせていると、来し方が思い出され、心が揺さぶられる。
夕日が川面に写り、潮が満ちて来た。河口から上げて来る白波をながめていると、20年前の記憶がよみがえって来た。

時節は夏の終わり頃であった。塩釜からさほど遠くない砂押川の河口付近で、魚釣りをしていた。草木もない低い中洲に、北川のほか数人の釣り人がいた。午後3時ごろ、潮が満ちて来た。このあたりでは、上げ潮の足は速い。1時間に1.5メートルも水かさが増す。
白波を蹴立てて、海から河口へ流れがどんどん逆流して来る。すると、川には沸き立つような活気がみなぎる。魚は水面を飛び跳ね、水中では銀鱗が激しく交差する。空では、魚を狙ってウミネコの群が騒ぎ出す。釣り人にとってチャンス到来である。入れ喰い状態が始まるからである。
しかしこの幸福は長続きしない。低い中洲ではたちまち水が足もとまで迫り、岸に戻る準備を始めなければならない。
ふと下流に目をやると、ひとりの釣り人が、上げ潮を全く意に介せずゆうゆうと釣竿を振っている。不思議に思い顔をのぞき込むと、女人であった。釣り好きの北川でも、女ひとりの釣り人に出会ったのは初めてであった。
年は三十半ばか。ジーパンに長袖の白のブラウス、左の胸にイタリックでEikoと刺繍がしてある。野球帽のつばから額に髪がこぼれていた。

帰り支度をしながら、北川は声をかけた。
「潮の足が速いですね」
女は浮きをにらんだまま
「これからが勝負ですね」
と応えた。岸にひき上げる様子は全くない。ヒュッと竿が空を切り、スパッとおもりが水に消える。なかなかの手だれだ。すぐさまアタリがあり、女の竿が大きくしなった。大もののようだ。セッパがダブルで来たのかもしれない。緊張で引き締まった女の横顔が美しい。そこには、孤独の翳りなどみじんもない。

くるぶしまで水が来たが、北川ももう少しねばることにした。海から寄せる波はさらに高くうねって、波頭が白くくずれた。波の向こうに見え隠れする水平線が美しい。

水かさはさらに増し、北川のひざまで来た。中洲はもう消えた。心配になり
「もうすぐ腰まで来ますよ」
と、女に声をかけた。
「私なら大丈夫。満ちて来る潮が好きなんです。ダイナミックで力強くて。そちらは引き上げた方がいいわよ」
と、強気な返事。
この人は何を考えているんだろうといぶかりながら、身の危険を感じた北川は岸に向って歩き始めた。途中で足を止め女の方を見ると、勢いを増す白波の中で、ゆうゆうと竿を振っていた。
岸にたどり着いた北川は、腰を下ろし女の身を案じた。なぜこんな捨て身の釣りをするのか、どうにも理解できなかった。
まもなく水かさは女の胸に達した。見かねた北川は、「戻れ!」と叫んだ。女はふり返り、笑顔で手を振った。OKの合図のようだ。「心配させておいて、なんという余裕だ」と、腹が立って来た。
びくの紐を首にかけ、水面に浮かべた竿を胸で押しながら、女は抜き手で泳ぎ始めた。あざやかな泳ぎぶりだ。
岸に泳ぎ着いた女は、呼吸の乱れもなく、北川のわきに腰を下ろした。そして
「ありがとう、心配してくれて」
と言った。着衣から水がしたたり落ちているが、気にするようすもない。
しずくが頬を伝い、右手首のブレスレットに落ちた。濡れたブラウスの二の腕から、肌が透けている。北川は目をそらし、言った。
「無茶しすぎだね。命が惜しくはないんですか」
「命は大切だけど、もう十分生きたわ。それに、こんな変な女、波にさらわれても誰も気に留めないわ」
「まだ若いのに、何を言ってるんですか」
と、北川は軽くとがめた。そして尋ねた。
「家族は?」
「親も子供もみんな失ったわ。夫は私のもとを去り、一時は、頭もおかしくなったわ。すべて終わったことだけど」
北川には返す言葉がなかった。女の目が明るく澄んでいるのが、わずかに救いだった。無言の北川を気遣ってか、彼女は付け加えた。
「でも、ひとりでも楽しみはいろいろあるの。日和山から海を眺めたり、絵を描いたり、バイクで風を切って走ったり、それに何よりも魚釣りが好きだわ」
「その日和山って、石巻の?」
「違うわ。野鳥保護区の蒲生海岸にあるの。日本一低い山なんですって。高さは10メートルくらいかな?」
と言って、女は笑った。
「でも眺めはすごくいいのよ。目の前の干潟ではサギが獲物を狙って抜き足差し足、沖にはよく大型の白い船を見かけるわ」
「一度行ってみたいな」
と北川は言った。女は黙って波頭を眺めていた。

「さあ、そろそろ始めようか。手伝って!」
と言うと、女は川に浸けてあったびくを引き上げ、中から次々にハヤを取り出した。ハヤは草の上で跳ねた。
「何をするんですか?」
「空を見て!ウミネコのディナータイムよ」
と言うと、ハヤを1匹つかみ、空高く投げ上げた。ブレスレットがきらりと光った。1羽のウミネコが急降下して来て、みごとにキャッチした。女は、「よしっ!」と声を発した。
私達は交互にハヤを投げ上げた。ウミネコがしくじると顔を見合わせて残念がり、首尾よくキャッチすると、手をたたいて喜び合った。
ウミネコの群は次第に大きくなり、羽音が聞こえるほど低空に降りて来て、ご馳走をせがんだ。

「ところでハゼはどうするんですか?」
と、北川は尋ねた。
「今日のハゼは大きいから、さしみね。ここのハゼは飴色をしていてきれいでしょ。おいしいのよ」
「ハゼのさしみなんて、初めて聞いたよ」
「そう?大事なのは、すばやくさばくことね。そうしないと透明な身がくすんで味が落ちるから」
少し迷って、女は言った。
「食べさせてあげたいけど、止めとくわ」

女は立ち上がり、帰り仕度を始めた。堤防を上ると、大型のバイクが止めてあった。半かわきの白のブラウスの上に赤のウインドブレーカをはおると、バイクにまたがりキックした。エンジンは一発でかかった。2、3度アクセルを吹かした。エンジン音があたりに小気味よく響いた。ヘルメットをかぶりながら、北川の顔をじっと見た。北川は、不自然だと知りながら
「我が身を大切にしなくちゃ」
と言った。女は、「ありがとう」と言って右手を差し出した。熱い手であった。
北川は走り去る女をずっと見送っていた。彼女は一度も振り返らなかった。いや、本当は、振り返ることができなかったのである。女は、子を亡くし悲嘆に明け暮れていたあの頃以来、こんなにあたたかい人の情けに触れたのは初めてであった。涙があふれた。こぼれる涙もそのままに、さらにアクセルを吹かした。

北川はあれ以来Eikoに会っていない。20年が過ぎた。また、今後も会うことはないと思っている。彼にとって、Eikoが生きていてくれれば、それで十分なのである。
我に返り北上川に目を転じた。沈む夕日の中で金色に輝いていた葦原も、いまは夕闇に包まれた。とぷとぷと岸を洗う波だけが、大河の静寂のなかで息づいていた。

◇南部健一プロフィール
1943年 金沢市千田町生まれ、二水高校(1961)―金沢大工学部(1965)−東北大学大学院博士課程卒(1970)、工学博士。
東北大学流体科学研究所(旧 高速力学研究所)教授(1986)、2006年 東北大学を定年退職、東北大学名誉教授
100年余学界の難問と云われたボルツマン方程式(Boltzmann equation)の解法を1980年世界で初めて発見、その功績によって2008年 紫綬褒章受章

著書; 「果てなき海に漕ぎ出でて」(丸善)仙台出版‘88)、「乱れる」(オーム社、1995)

南部健一ブログ「 果てなき海へ漕ぎいでて 」
http://blogs.yahoo.co.jp/nanbukenichikitagawaissei



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