からたちサロン29 20110819
ふるさとを出でて・・・「愛は霧のかなたに」
◇今井清博(13期)

法政大学生命科学部教授
(分子生体機能学研究室)
今井さん(13期)は若いころ異常ヘモグロビン研究のため英国ケンブリッジに招聘されたことがあった。ある日ゴリラ研究家フォッシーさんと出会い、交流が始まった。
フォッシーさんはルワンダでマウンテンゴリラとともに生活し、その生態研究で世界的に有名だったが、ある日原住民に暗殺され、彼女の物語が映画「愛は霧のかなたに」として上映された。今回は歴史的人物との思い出を語ります。(編集;高田敬輔)



◆ケンブリッジで「異常ヘモグロビン」の研究
 1973年のクリスマスシーズン直前に、私は妻と3歳の娘を連れて、雪で埋もれたアメリカのフィラデルフィア市から大西洋を越えてイギリスのケンブリッジへ渡った。ケンブリッジ市の郊外に、MRC(英国医学評議会)異常ヘモグロビン研究所があった。私はそこのレーマン教授の研究室で研究を行うことになった。当時、ケンブリッジ大学の生化学教授でもあった彼は、人にいろいろな遺伝病を引き起こす異常ヘモグロビンの研究で世界をリードしていた。異常ヘモグロビンというのは、赤血球の中の酸素運搬を担っているヘモグロビンという赤い蛋白質の突然変異物のことである。この突然変異ヘモグロビンは、しばしば血液の遺伝病を引き起こす原因となった。その当時、世界のあちこちで発見された新種の異常ヘモグロビンがこの研究室に送られてきて、それらの正体を突き止めるのがこの教授たちの役目であった。私は、それらの異常ヘモグロビンの酸素運搬機能を測る共同研究の目的で招聘された。
  私たち家族は、ケンブリッジ市内のアパートを借りた。アパートの名前は「メイフラワー」。イギリス人が初めてアメリカ大陸のニューイングランド地方に渡った移民の乗った帆船の名前と同じだった。
  レーマン研究室は国際色豊かで、当時、イングランド、スコットランドはもちろん、遠くアフリカのタンザニア、中米のメキシコ、そして日本など、世界各地からやってきた研究者がひしめいていた。東洋人は私一人であった。
レーマン教授は、私を彼の出身のクライスト・カレッジでの晩餐会に誘った。黒いガウンに着替えて広いホールに入ると、大勢の学生達が黙々と食事をしているエリアの隣の一段高い床のエリアでは、教授達がこれまた黙々と食事をしていた。全員が黒いガウンをまとっていて、何か異様な雰囲気が漂っていた。ホールの周囲の壁には、ケンブリッジ大学の卒業生で、イギリスの歴史に残る偉人達の肖像画が掲げられていた。クロムウエル、ダーウィン、ニュートンなど、学校の授業で馴染みのある名前が目に入ってきた。後で知ったことであるが、この晩餐会はフォーマル・ホールと呼ばれるカレッジ毎の行事で、中世由来の慣習が引き継がれているという。

クリスマスの日のレーマン教授と筆者
クリスマスの日のレーマン教授と筆者


◆ゴリラ研究のフォッシーとの遭遇
 ある日、私たちのアパートの部屋に、一人の女性が尋ねてきた。彼女も同じアパートの住人で、「ダイアン・フォッシー」と名乗った。年齢は40歳台か。彼女は、アメリカの動物学者で、アフリカのルワンダで、野生のマウンテン・ゴリラの研究をしていて、それに関する博士論文をまとめるために、一時的にケンブリッジに滞在しているとのことであった。そして、私がレーマン教授の研究室で研究をしていることを聞きつけて、レーマン教授宛の質問を伝えて欲しいということだった。その質問の内容は血液の遺伝に関することであった。私にも大体答えは察しがついたが、一応、レーマン教授に伝えると、教授は苦笑いをして「素人の質問だが、このように答えてくれ」と私に指示を与えた。
彼女は、野生のマウンテンゴリラの群れに入り、彼らと一緒に生活をしながら、ゴリラの生態を研究していることで、当時からかなり注目を浴びていたらしい。彼女からその話を聞きながら思わず、「今までにゴリラと暮らしていて危険を感じたことはないですか?」と尋ねた。すると、彼女はあからさまに困惑した表情になり、大きく顔を横に振った。私は何という愚問をしてしまったのかと、今でも思い出すたびに恥ずかしくなる。
  何日か後で、私たちは娘に浴衣を着せてフォッシーの部屋を訪ねた。彼女はたいそう喜んで、娘の写真を撮ったり、いろいろ日本の習慣などを聞いたりした。そして、彼女が持っていたゴリラの白黒写真を何枚かプレゼントしてくれた。A4サイズのそれらには、ゴリラの顔が大写しになっていたり、彼女がゴリラの群れの中に入って一緒に暮らしている様子などが写っていた。これらの写真が彼女の形見になるとは、その時は思いもよらなかった。

浴衣姿の娘を抱くフォッシー女史
浴衣姿の娘を抱くフォッシー女史


◆フォッシー女史が映画「愛は霧のかなたに」のヒロインに
 日本に帰国した後も、時折、雑誌か新聞で、彼女のゴリラの研究のことが記事になっているのを見かけた。そして、彼女とケンブリッジで会った時から10年ほど経ったある日、彼女が暗殺されたことをニュースで知った。その3年後に、その事件のルポルタージュが映画化されたので観た。題名は「愛は霧のかなたに」(米、1988)。
彼女は、霊長類で人間に近いゴリラの生態を学問的に研究する目的で、ゴリラの群れの中に入って一緒に生活するという思い切った行動に出た。初めはゴリラたちは彼女を警戒してなかなか受け入れてくれなかったが、根気よく接近を試みる内に仲間のように受け入れるようになった。しかし、あるとき、自分が親しくしていたゴリラの親子が原住民によって殺され、大変なショックを受ける。ゴリラの手や首が白人に高く売れるので、原住民によるゴリラ狩りが横行していた。ルワンダ政府は一応はゴリラ狩りを禁止してパトロールを行っていたが、密漁が後を絶たなかった。
フォッシーはすぐにゴリラの保護のために立ち上がった。あるときは、原住民をお金で雇って、彼らにゴリラを殺した原住民の住み家を焼き討ちさせたこともあった。その結果、原住民との対立はますます激しくなっていった。そして、ある夜、彼女が小屋で眠っていたところを原住民に襲われ、殺された。54歳だったという。私たちにはとても他人事ではなかった。
  フォッシーの行動には賛否両論があった。学問的には誰もなし得なかったゴリラとの共同生活による生態観察という業績は高く評価された。さらに、ゴリラの保護に向けた献身的な行動も高く評価される一方、そのやり方、すなわち、ただ一人で一方的に原住民の生活の糧を奪うような行動に出ないで、先進国からの公の資金を求めて原住民の生活を保障しながら保護運動をすべきであったという批評も耳にした。彼女を個人的に知っていた私としては、彼女に味方したい気持ちはあったが、批評にも一理はあり、複雑な思いであった。彼女の普段の精悍な顔つきが、会話の中で優しい目つきになったことを今も忘れない。
イギリスは斜陽の国といわれて久しいが、今でも過去の輝かしい業績の上に支えられた独特の文化、習慣を守り、誇りを失っていない。イギリスの人たちは保守的というのは間違ってはいないが、彼らは誇りをもって、新しい未来を開拓する意欲も旺盛である。ユーラシア大陸の西の端の島国の彼らは、同じユーラシア大陸の東の島国からきた科学者のはしくれを暖かく迎えてくれた。その土地で私は一人の歴史的人物の活動に関わるという機会に遭遇した。その時の記憶がいつまでも霧のかなたに残っている。


◆ナショナルジオグラフィック ニュース
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=91388620
写真は幼いマウンテンゴリラを胸に抱く、ゴリラ研究の先駆者ダイアン・フォッシー。
1970年、ルワンダのヴィルンガ火山群で撮影された。

◆映画「愛は霧のかなたに」
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/GORILLAS%20IN%20THE%20MIST.htm

◇今井清博プロフィール
 金石中学―二水高校―大阪大学基礎工学部―大学院卒、大阪大学医学部、大学院生命機能研究科を経て、2002年より法政大学工学部教授。2008年より現職。 「からたちサロン」に「ふるさとを出でて・・・シリーズ」執筆中


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