からたちサロン19
ふるさとを出でて・・・フィンランディア
◇今井清博(13期)

法政大学生命科学部教授
(分子生体機能学研究室)
 今井清博さん(13期)の高校時代、金沢で喫茶店といえば「郭公」、「寿苑」、「ぼたん」など・・・、そこでは大きな電蓄でタンゴやクラシックなどのLPレコードが演奏されていたが、高校生は入ることが禁止されていた。ある日、英語の高畠文夫先生があえて音楽室でシベリウスの「フィンランディア」を聴かせてくれた。その一曲が青年の人生に深く刻まれたという幸せなお話です。
(サロンマスター 高田敬輔)


■ 「合コン」で准優勝
 ドアを開けて講堂に入ると、奥のステージが闇の中でぼんやり浮いていた。手探りでゆっくり前へ進む私の耳に飛び込んできたアナウンスの声を聞いて、一瞬立ちすくんだ。確かに、「準優勝は小谷研です。小谷研の方、いませんか?」と聞こえた。 もう一度同じアナウンスが繰り返されたとき、私はとっさに傍にいた学生スタッフに、 「小谷研の者です」と名乗り出た。すぐにステージに誘われて、そこで表彰状を受け取る羽目になった。
 私はその年、大阪大学大学院の学生であった。校舎は大阪市の北の郊外にあった。私の所属の研究室は小谷正雄という名の知られた教授が主宰していて、小谷研と呼ばれていた。準優勝したのは、そのときに出場した大学祭の合唱コンクールであった。
 その頃、私は来る日も来る日も自分の研究テーマのもとに実験に没頭する毎日で、学会発表の間際になると、徹夜で実験という日も珍しくなかった。研究室には、同輩や後輩の大学院生が7,8名いて、2人の助手の先生をチューターとして、各々実験に没頭していた。それでも、夜中には、ギターを持ち出して弾いたり、歌ったり、そのころ発売されて話題になった少年サンデーや少年マガジンという少年向け週刊誌を読んだりしていた。
 そんな単調な生活に飽きたのか、誰からともなく、その年の秋の大学祭で行われる合唱コンクールに参加しようかという話が持ち上がった。それも混声合唱でということになった。しかし、研究室には男性ばかりで、女性は教授秘書しかいなかった。そこで、同じ大学の医学部にあり、女性が大勢いる生化学講座と合同でにわか合唱団を結成することにした。この講座とは、研究テーマが近いので普段から交流があった。
 因みに、大阪市内にあったこの医学部は、山崎豊子の小説「白い巨塔」のモデルであったのは知る人ぞ知ることである。また、後に映画にもなった純愛小説「愛と死をみつめて」のストーリーがまさにこの頃、その附属病院で進行していたことは、誰も知るよしもなかった。

◆きっかけは英語の高畠文夫先生
 問題は歌う曲目であった。私には、以前から胸に抱いていたある曲があった。それは、私が二水高校に通っていた時に溯る。1年生のときの英語教師高畠文夫先生は、いつもきちんとしたスーツを着こなし、几帳面で、英文法に極めて厳しくて、外国の英文法専門書にある「学説」を披露しながら、あたかも大学の英文学科でやるような授業を進めていた。教室内は常にピーンと空気が張りつめていて、私語などささやく者は1人もいなかった。そんな先生にふさわしく、趣味はクラシック音楽だと噂されていた。
 ある日の英語の時間に、高畠先生は私たち生徒を音楽室に連れて行き、シベリウスの交響詩「フィンランディア」のレコードを聴かせてくれた。ちょうど、英語の教科書では、北欧の人々の生活や風習を学んでいた。先生は熱っぽくこの曲が作曲された背景を解説してくれた。これが作曲された頃、それは帝政ロシアの圧政に苦しんでいたフィンランド人に独立運動の勇気を与え、この曲なしに独立はあり得なかったと伝えられていると・・・
 実はその後、私には高畠先生とは奇遇と言うべき出会いがあった。私が阪大に入学して受けた教養科目の英語の担当が高畠先生だったのである。高畠先生は、二水高校から奈良県立医科大学の教員として赴任し、毎週1回、母校の阪大に英語を教えに来ているとのことだった。
 さて、私には、高畠先生から聞かされた「フィンランディア」の物静かで何か平和を感じさせるメロディーが忘れられなかった。そこで、日本語歌詞の付いた混声四部合唱の楽譜を探し出し、これをコンクールで歌うことになった。指揮は私がやることになった。私は、教養部時代に小さなグリークラブに属して、数多くの合唱曲を歌った経験があった。
 
◆にわか作りの合唱団を指揮
 にわか作りの合唱団の"団員"は18名。男声と女声が半々ぐらい。内訳は、助手の先生以下、秘書さん、実験補佐、院生など多彩。練習のとき、多くの人たちは、まだ仕事の最中であったが、手を休めて駆けつけてくれた。実験の白衣姿の人もいた。ピアノはなくて、無伴奏すなわちアカペラ。
 10月下旬の晴れた土曜日。コンクール会場は医学部と同じ敷地にある講堂。医学部最上階で簡単にリハーサルを済ませた後、本番に臨んだ。服装はまちまちだが、楽譜には水色のカバーを付けて見栄え良くした。
 研究室の名前が呼ばれて、ぞろぞろステージに上がった。曲名がアナウンスされた。私は一人前へ進み出て、後ろ向きになり、団員の列がやや円弧を描くように指示した。音叉を取り出し、それをはじいて初めの音を採り、団員たちにそっとハミングで合図した。聴衆が一瞬静かになるのを感じた。手を振り下ろした。四部の声が講堂内に響き始めた。

  七つの海越え ひびけ はるかの国のもとへ
  ふるさとの 野に歌える 私の希望こそ
  世界のすみまで同じ 平和への歌声

 途中で私は膝ががくがく震えるのを感じた。聴衆全員が自分を注視しているかのように感じた。もう後戻りできない。このまま曲の終わりまで行き着くのか不安になった。しかし、膝の震えを団員たちに悟られたくなかった。恐らく、手の振り方はすこぶるぎこちなかったに違いない。長く感じた時間が経って合唱は終わった。一応、拍手をもらったので、客席にお辞儀してステージから降りた。
 全団体の演奏が終わってコンクールの審査結果がでるまでかなりの時間がかかりそうだったので、しばらく街に出て本屋などでぶらぶらした後、念のため、審査結果を聞くために講堂に戻った。もともと「参加することに意義」と考えていたので、入賞など期待していなかったが。それがなんと、準優勝に輝いたとは・・・
 帰り道、私は同僚たちとほとぼりを楽しみながら、奮闘ぶりを話し合っていた。しかし、私はひとり、「今後指揮者は金輪際やりたくない」と心の中で密かにつぶやいていた。
 私はこの合唱団に将来の妻がいたことを知るよしもなかった。


高畠文夫先生
1953〜1960年の間、二水高校で英語教師として教鞭を採られた。学科担当として10期、13期の同窓生にはお世話になった人たちも多い。
先生は二水の教諭から奈良県立医科大学―星薬科大学教授をされ、英文学者として著名な方で、角川文庫などで翻訳本も多く出版されています。 現在82歳、星薬科大学名誉教授、杉並区でお元気に過ごされています。
 代表的出版書籍
  1)「動物農場」 ジョージ・オーウェル著, 高畠 文夫 翻訳、 角川文庫
  2)「すばらしい新世界」 オールダス・ハックスリー著, 高畠 文夫 訳  角川文庫
  3)「魔女の呪い・・・ハーディ短編集」 トマス・ハーディ著、高畠文夫訳 角川文庫
  4)「トウモロコシ畑の子供たち」 スティーヴン・キング 著 高畠文夫 訳 扶桑社
  5)「深夜勤務」 スティ−ヴン・キング著、高畠文夫 訳、サンケイ出版


◇今井清博プロフィール
 金石中学―二水高校―大阪大学基礎工学部―大学院卒、大阪大学医学部、大学院生命機能研究科を経て、2002年より法政大学工学部教授。2008年より現職。
 幼年時代は能登で、少年時代を金石で過ごす。1961年、大学進学のため一人大阪へ。電気工学科卒業後、大学院から生命科学の世界へ。以後、医学部生理学講座勤務。大阪で41年間過ごした後、2002年から東京の大学へ単身赴任。週末に大阪の留守宅に帰って、趣味の写真と合唱を楽しんでいる。・・・昨秋「第71回国際写真サロン」に入選。
 法政大学工学部生体物理化学研究室  http://www.k.hosei.ac.jp/ceng/fb/teacher/imai.html


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