からたちサロン15
ふるさとを出でて・・・風の子
◇今井清博(13期)

法政大学生命科学部教授
(分子生体機能学研究室)
 昭和24年山本嘉次郎監督の「風の子」という映画が上映されましたが、おそらく、戦後最初の県内ロケだったと思われます。今井清博さん(13期、物理部出身)は小さい頃父親の勤務で奥能登各地を転々としました。今回は羽咋の実家に帰省の折訪ねた庵主さんが、幼いころラジオで聞いた「風の子おばさん」であることが分かり、さらに最近になってニ水の縁で、再び「風の子」余話に出逢いジーンとされたお話です。
(サロンマスター 高田敬輔)


 恐らく、私の幼稚園の頃に、「風の子」という連続ラジオドラマがNHKから放送されていた。筋書きは、戦時中に都会から石川県羽咋郡余喜村へ疎開した子供達が、現地の子供達と交流するさまを描いたものである。主題歌のメロディーだけがいつまでも記憶に残っているが、歌詞は一部しか覚えていない

◇庵主さんが「風の子おばさん」
 昭和61年の夏休み。当時大阪に住んでいた私たち家族は羽咋市千里浜町にあった両親の家に帰省していた。ある日、私は妻と共に、「見性庵」という小さな稲荷神社を訪ねた。この庵は、朱鷺の住んでいた眉丈山と邑知潟地溝帯を挟んで反対側にある小高い山の上にあった。庵主の得猪そと(祚登)子さんが人生相談をやっているというので、好奇心なかばでお目にかかりに行ったのである。庵主さんは私たちをじっと見つめながら、蕩々とした口調で、私たち夫婦や二人の子供の将来や、今後の生き方に関する心構えを話して下さった。私はあまり占い信じない方であるが、庵主さんの言葉には何か説得力を感じた。
 帰って、母に話すと、この庵主さんは、昔、ラジオで放送されていた「風の子」の主人公のおばさんのような存在で、地元ではよく知られた人物だと言った。私は、主題歌しか記憶にない昔のラジオドラマが、何と両親の故郷が舞台だったことに驚き、強い好奇心を抱くようになった。
 平成3年の夏に、私と妻は再びこの見性庵を訪れた。思い切って、「風の子」の記憶のことを打ち明け、そのドラマの背景などをお聞きしようとした。庵主さんは、私たちの熱意にほだされたのか、奥から一冊の本とカセットテープを取り出してきて、それらを何と私たちに貸して下さったのである。
 カセットテープには、金沢の北陸放送の記者が、国鉄七尾線に乗って見性庵を訪れ、庵主さんから「風の子」にまつわる話を聞き出す対談番組の録音が入っていた。七尾線の金丸駅へ向かう列車のガッタンゴットンという音までリアルに入っていて、思わず引き込まれた。
 本のタイトルは「風の子」。著者は山本映佑。発行年は昭和23年11月15日となっていた。序文は川端康成が書いていた。一部を引用すると、
 「山本映佑君は児童雑誌「赤とんぼ」の生んだ綴方作家である。(中略)私たちはこの本を世に出すことを喜びとし、誇りともする。映佑君のような子供のいてくれることは、敗戦後の日本の明るい光である。(中略)映佑君は山家にいて、しかも家庭教育だけで、これほどの知性のみがかれていることも、まったく珍しく尊い。よい綴方にはよい教師がいる。映佑君は學校に行っていない。叔母さんが教師である。(中略)この本が評判になるであろうが、それが映佑君の健やかな成長をそこなわないことを望む。」  この本の書き出しは、別れてきた先生への手紙文で始まる。作者が疎開中に経験する田舎での生活の様子がありありと描かれている。戦時中の食糧難のとき、田舎の子供達はなんとか食べるものはあった。その子供達がおにぎりや薩摩芋を美味しそうに食べるのを横目で見ていた作者が、何度も失敗しながらも自分で薩摩芋を育てて、最後に収穫の喜びを知る。そんな作者を、叔母役の得猪祚登子さんが教育し、暖かく見守っていくのである。
 この小説がラジオで放送されると、世の中の脚光を浴び、その文章が小学四年生の国語の教科書に掲載された。得猪さんは「風の子のおばさん」として、一躍有名になったという。
 この小説は、当時、山本嘉次郎監督のもとで映画化されたが、私は知らずにいた。全国で上映されて反響を呼び、多くの学校で鑑賞され、ついには文部大臣から表彰されたという。この映画の主題歌「風の子」は、サトウハチロー作詞、古関裕而作曲となっている。私がラジオで聴いたと思っている曲は、おそらくこの曲に違いない。私はこの主題歌の歌詞を初めから終わりまでどうしても知りたいと長年思いこがれていた。

◇主題歌「風の子」に再会
 転機は平成18年5月に訪れた。そのとき、私は東京都小金井市にある大学で教鞭をとっていた。ある日、母校の金沢二水高校から電話があり、後輩の生徒達に講演をするように依頼された。45年ぶりに母校を訪れた私は、「生命科学は面白い」というタイトルの講演を行い、帰り際に、昔に習った理科の先生方の消息を聞き出した。その中で、化学を教えて下さった北村澄江先生がまだご健在で、それも東京都町田市にお住まいであることが分かった。
 北村先生にお目にかかると、もう80歳代にもかかわらず、元気はつらつで、今でも在京の何人かの二水高校の教え子たちと時々お目にかかっているとのこと。そして、ある日、北村先生と教え子たちとの会食に招かれた。そのとき、得猪外明さんという7年先輩の方がおられて、その方の話の中に「風の子」という言葉を耳にしたので、私はとっさに、
  「私も知っています。私の両親は羽咋の出身で、私もそこに住んでいたことがあります」 と告げると、たいそう驚かれた様子で、しかし、またも思い出を共有できる仲間が増えたと喜んでくれた。
 何日かして、得猪先輩から資料が送られてきた。昭和24年2月に公開された映画「風の子」の古ぼけた紹介パンフレットであった。そこには、何十年も探し求めていた主題曲「風の子」の歌詞も載っていた。

   お芋のはっぱに 小風が吹いた
   ころりと朝露 ころげて落ちた
   風の子風の子 とべとべとんで
   おうちのかあさんに 話してこい
   しもやけふくれて お口があいた
   すかしてみたらば 夕日があかい
   風の子風の子 とことこかけて
   風見の鳥にも 話してこい
   (以下 三、四省略)

 これで、私の記憶にあった飛びとびの歌詞が完全につながった。私はそれを口ずさんで、あまりの懐かしさで胸がジーンとくるのを押さえられなかった。
 こうして、私は、幼年時代に放送されていたドラマの原作とうろ覚えの主題歌に、ほぼ60年ぶりに巡り会うことができた。そのきっかけは、私の大学のホームページに、私が金沢二水高校卒業と書かれているのを、その高校の進路担当の教師が目ざとく見つけ、私に講演を依頼して下さったことであった。さらにそのことは、昔の高校の恩師、先輩達との出会いを生み、昔のドラマに想いを寄せていたのは自分だけではなかったことを知らせてくれた。

 山本監督の映画は、平成12年12月に、地元羽咋で「もう一度!映画『風の子』の会」主催の映写会が羽咋市や北国新聞のバックアップで開催され、大盛況だったらしい。 得猪先輩の書かれた小説「見性庵聞き語り」(北國文華35号2008年春)には、庵主さんである得猪そと子さんの波乱に満ちた一生が非常に詳しく述べられていた。本稿を書くにあたり、この小説を参考にさせていただいた。得猪先輩に感謝いたします。



写真;「風の子」表紙
昭和23年11月 実業之日本社より定価120円で発行された
 (得猪外明さん提供)



風の子;WEB検索結果
http://movie.goo.ne.jp/movies/p27031/index.html
http://www.entermeitele.net/roadshow/sakuhin/?id=27104
山本映佑;羽咋市歴史民俗資料館HP参照 http://www.city.hakui.ishikawa.jp/rekimin/rekimin/history/great_person/g-eisuke_yamamoto.htm
小説「見性庵聞き語り」作家 得猪外明さん(7期)のコメント
 私の「得猪」というきわめて珍しい姓から同姓の「得猪外子」を偶然に捜しだし、何度か見性庵を訪れて話を聞きドキュメンタリーを小説にしました。
「風の子のおばさん」こと得猪外子に出会いは身の上相談、いまふうにいえばカンセラーのようなことをしていましたが、その波乱万丈の人生を通して驚くほどの知己を持っていました。 残念なのは「風の子」の主人公山本英佑氏には会えぬまま亡くなったことです。

◇プロフィール
金石中学―二水高校―大阪大学基礎工学部―大学院卒、大阪大学医学部、大学院生命機能研究科を経て、2002年より法政大学工学部教授(現在、生命科学部)。
幼年時代は能登で、少年時代を金石で過ごす。1961年、大学進学のため一人大阪へ。電気工学科卒業後、大学院から生命科学の世界へ。
以後、医学部生理学講座勤務。大阪で41年間過ごした後、2002年から東京の法政大学へ単身赴任。
週末に大阪の留守宅に帰って、趣味の写真と合唱を楽しんでいる。
法政大学生命科学部分子生体機能学研究室   http://www.hosei.ac.jp/seimei/seimeikinou/kyoshokuin.html


写真;今井さんの最近作品 「冷気」


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