からたちサロン10
雑学への道・・・生きた化石
◇得猪外明(7期)
( とくい そとあき )
神田雑学大学理事
 雑学博士の得猪さんには「雑学を学とする」才能が備わっているよ うで、トレビアなお話が楽しみです。
社会人になって振り返ると、自分の行動や思考が高校時代に芽生えていたと気づくことが多くあります。 今回の話も雑学博士の雑学に対する好奇心と情報収集力の原点になっていたかもしれません.
(紹介者;サロンマスター高田敬輔)


 昭和27年、見事なからたちの垣根がある穴水校舎に入校した。 靴など無くて厚歯の高下駄を履いて通学した。歯が減ると下駄屋に行って取り替えてもらった。長髪はナンパといわれた時代で、三年間を丸坊主で過ごした。
 トイレは汲み取り式だったから、契約した農家が大きな肥桶を持って汲み取りに来ていた。その日は学校中にえもいわれぬ芳香が漂ったものである。
 クラブは化学部に入った。化学部というと真面目な生徒のようなイメージがあるが、そうでないのもいる。
 いまも金澤で健在な母は明治43年生まれの100歳だが、二水の前身、第一高女で竹俣先生と同級だった。
 あるとき同窓会で「竹俣さん。うちの子の出来はどうやいね」と聞いたら先生、困った顔をして「得猪さん。あんたんとこの子は大器晩成型やぞいね」と言ったという。
 悪さもやった。化学の実験で先輩が水素と酸素を化合させて水をつくろうと言い出して、 水素を発生させ酸素と混ぜて砂場にフラスコを埋めて火をつけた。
 その瞬間、ドカーンと数キロ先まで轟くような大音響がして、みんな唖然として立ちすくんだ。
 おりしも職員会議の最中だった。化学部がなにかやったらしいというので顧問の野村先生が顔面蒼白となってすっ飛んで来た。幸い誰も怪我はしなかった。

 あれから60年。竹俣先生から大器晩成型といわれた少年はどうなったか。 還暦も過ぎて年金生活になってから、なにを思ったか突如勉強を始めた。 二水の出身者で医学博士や工学博士はゴマンといる。なるべく人のやらないことをやろうと思ってコケコッコロジイというものを始めた。参考書もないし先生もいないので全て独学である。
 白地図を買ってきて、それまで調べた世界のにわとりの鳴き声を記入していった。日本でも明治以前、にわとりは方言でどう鳴いていたかも調べた。日本にはじめてコケコッコーが登場したのは明治36年である。
  このことが日本経済新聞の文化欄に載り、文部科学省が発行している教員向けの月刊誌「初等教育資料」に紹介された。 これが縁で小学校の[総合的学習の時間]の先生に呼ばれたり、ロータリー倶楽部の卓話を頼まれたりして結構余生を楽しんでいる。
 これまで母が生きた化石だと思っていたが二水OBの関東地区総会に出席してみて自分が生きた化石になっていることに気がついた。(了)


コケコッコーの由来・・・明治36年「尋常小学読本二」に 「カッタホー ノ ヲンドリ ハ、タイソー、イバッテ、ヘイ ノ ウエ ニ ノボリマシタ。 ソシテ、ハバタキ ヲシテ、コケコッコート、ナキマシタ。・・・」と記載されている。
 故 竹俣とめ先生
昭和23年〜昭和51年まで本校在職された名物先生。
羽織、袴でいつも竹のムチを持っていて、長髪にしたり、数学授業で答えられないとパチーンと愛の鞭?がとんだ。
生徒には「竹俣の婆ちゃん」と恐れられていたが、生徒が授かった情熱と愛情には、いまなお感謝する人が多い。
北村澄江先生の恩師にあたり、第一高女時代に北村先生を招聘された。
 (写真は昭和32年修学旅行でのにこやかなスナップ)

◇得猪外明(とくいそとあき)プロフィール
 1937年金沢生、二水高校―金沢大学経済学部―JFEスチール梶i旧日本鋼管)出身
 NPO法人神田雑学大学 理事
 コケコッコーから擬音語・擬態語の世界にはまり、さらに日本語はどうしてできたか、日本人は何処から来たか、なぜ人間だけが話すことが出来るのかなど雑学に終わりはなさそうです。
神田雑学大学は毎週金曜日開校していますので、遠慮なくご来校ください。 神田雑学大学; http://www.kanda-zatsugaku.com/


著書 「へんな言葉の通になる」祥伝社新書 2007

小説 「見性庵聞き語り」北國文華 35号 2008春
    「報国石川号」  北國文華 36号 2008夏
     「田端金沢村」  北國文華 38号 2009冬



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