からたちサロン09
ふるさとを出でて・・・心のふるさと
◇今井清博(13期)

法政大学生命科学部教授
(分子生体機能学研究室)
 高校卒業後県外で過ごした者として、「ふるさとは遠きにありて思うもの・・・」という犀星の気持ちに共感する。 今井清博さんは太平洋戦争真只中の昭和18年3月、金沢で生まれ、小さい頃父親の勤務で奥能登各地を転々とし、金沢で中高校時代を過ごし、大学以降は大阪、東京で生活する。生命科学という最先端技術の研究者にとってふるさとは懐かしいだけでなく、旺盛な研究心を育んだところなのだ。
(サロンマスター 高田敬輔)


高峰譲吉博士に魅せられて
 平成18年4月のある日、金沢二水高校から突然電話が入った。3年生に何か講演して欲しいとのこと。何でも、私が勤めている法政大学のホームページに、私が二水高の出身であることを記載してあるのが目にとまったらしい。私は二つ返事でお引き受けすることにし、色々の資料を集めて、最近よく使われる"パワーポイント"と呼ばれるパソコンを用いた発表手段のデータを作成した。そして5月の連休の前に、私は母校をなんと45年ぶりに訪問して後輩たちに講演を行った。
 タイトルは「科学者を目指した理由:高峰譲吉博士に魅せられて」であった。 面はゆいが、私は中学、高校で高峰賞をいただき、将来は郷土が生んだ高峰博士のような立派な科学者になりたいと、密かに望んでいた。高校を出ると、私はひとり大阪に出て、大阪大学で電気工学を学んだ。ところが、大学院へ進学する際に、幼い頃から神秘に感じていた"いのち"の学問である生命科学に転向した。図らずも、結局、私は高峰博士と同じ分野で研究に携わることになった。そして私が少年時代に憧れた高峰博士の偉業を同じ年代の後輩に伝える栄誉に恵まれ、感無量であった。

能登の町々を転々・・・
 幼少年時代 私は空襲警報が鳴り響く太平洋戦争のまっただ中に金沢で生を受け、その後、大聖寺、羽咋、穴水(幼稚園)、門前(小学校入学)、宇出津、飯田、金石(小学校卒、中学卒、高校卒)と、石川県内を転々とした。小学校は4校も通った。
 穴水では川に転落して溺れたこと、身の丈ほどのゴザ帽子を被って幼稚園に通ったこと、福井大地震で両親共々慌てふためいて屋外へ飛び出したこと、門前では総持寺の巨大なしゃもじに驚いたこと、宇出津では、夏のあばれ祭りのキリコに乗って街を練り歩き、アイスキャンデーを食べながら、太鼓、しゃんぎり、笛の囃子に浮かれたこと、キリコ祭りに合わせて毎年催されたサーカスの空中ブランコを手に汗握って見たこと、キャッチャーボートが引いてきた鯨を魚市場で解体するところなど、思い出を挙げるときりがない。宇出津小学校4年生の頃、衆議院議長を務めた益谷秀次氏が久しぶりに帰郷するということで、全校生徒で旗行列を行った。その頃、その小学校では、創立80周年を盛大に祝ったので、随分歴史の古い学校ということになる。飯田小学校の校長は歌が好きで、朝礼のときに自ら指揮をして、全校生徒に、当時新しくできた校歌や"たきび"などを歌わせた。そして、校長の呼びかけで、全生徒がしもやけを治すために、一斉に手をこすり合わせた。

金沢で出会ったカルチャーショック
 小学6年生のとき、金石小に転校した。それは自分にとって"第一次カルチャーショック"であった。そう、田舎と都会の格差に目が覚めたのである。いつも休み時間になると、校舎の窓から遠くに見えた白山を指さして珍しげに級友に告げていたら、いつの間にか"白山清だんべ"というあだ名がついた。
 その後に迎えた中学、高校生活は、雨後の竹の子のような、心身共に急成長した時期であった。放課後に応援団から教えられた応援歌を、金沢市営グランドで催された金沢市中学校連合運動会で歌ってみんなで燃えた。このとき、全参加者で歌った"金沢市民の歌"は今でも鮮明に記憶している。

   朝日に映ゆる白山の 勇姿は空にそそり立ち
   流れ豊けき犀川や  かげ静かなる浅野川
   そのふところに育める 我らがみやこ金沢市
 
 二水高校1年生の夏、古い木造の穴水校舎から、緑町に新築された校舎に引っ越した。その建物は、"廊下のない校舎"として建築界で注目され、建築家がよく見学に訪れていた。3年生の秋、いわゆる"60年安保"で学生運動の激しいさなか、その校舎のグランドで、訳も分からないまま、岸首相の張り子をかついでデモ行進を行った。映画鑑賞では、暗い映画館の2階席から上級生がコショウをばらまいたことも・・・。青春のまっただ中であった。

大阪の活気に圧倒され
 大阪での大学生活。第二カルチャーショック。大阪の街の活気に圧倒され、徹底的な合理主義に目が覚めた。極めつきは、北陸で天候が荒れるほど大阪では好天気で、なんと、冬でもコンクリート打ちの工事ができること!百万石っていったい何だったんだ? 自分の知らない世界がまだあったのだ。それでも、"裏日本"という言葉を耳にするたびに、"負けてたまるか"と、密かに闘志を燃やした。帰省で北陸トンネルをくぐると間もなく、ふるさとが暖かく迎えてくれた。出身地を聞かれたとき、誇らしげに"金沢"と答えた。

能登の優しさ土までも
 平成12年の七夕の日に、妻を同伴して、JR北陸線、七尾線、のと鉄道と乗り換えて、宇出津駅に降り立った。あばれ祭りの初日。囃子の音が耳に飛び込んできた。これだ!46年ぶりで聞いた懐かしい音に鳥肌が立った。私は写真が趣味で、長年の夢を叶えるべく少年時代の思い出の町を訪れて、祭りを撮影する決心をしたのだった。 50基もの巨大なきりこが行列をなして街を練り歩く様は圧巻であった。夜に、巨大な松明の周りを乱舞するきりこの群れや、川に真っ逆さまに投げ込まれて痛めつけられる御輿などを、午前2時頃まで夢中で追いかけ、激写した。翌日、撮影の合間に、宇出津小学校同級だった旧友を訪ねた。昔歌った校歌を一緒に歌ったとき、彼は涙が出るほど嬉しいと言ってくれた。

   城山みどりいただいて 波静かなる宇出津湾
   賑おう出船入り船に 運ぶ海幸山の幸

 あばれ祭りで宇出津を訪ねる何年か前に、宇出津小学校の恩師のご自宅を柳田村に訪ねた。悠々自適生活の恩師の開け放った藁ふき屋根の木造の大きな屋敷の中を、数匹のオニヤンマが隊列をなして通り抜けていった。"能登はやさしや土までも"を、実感した瞬間。
 能登の冬は厳しかった。11月になると霰が降り、やがて、"雪出し風"が電線をうならせ、それが止むと、静かにしんしんと雪が積もった。蛇の目傘に綿の足袋、足駄がけで出かけると、時々立ち止まって傘を横に倒して積もった雪を払い落とし、足駄の2枚の歯の間に雪だるま式にたまった雪の塊を道ばたの石にコンコン打ち付けて落とした。銭湯から帰る途中、濡れた手ぬぐいがカチカチに凍った。
 しかし、春が来たときの喜びは格別であった。根雪が解けて白く乾いた地面が現れ、雪で隠れていた遊び道具などが見えてきたときは浮きうきした気分になった。土手には白銀のネコヤナギが芽を吹いた。それはいつも卒業式で蛍の光を歌って上級生を送り出した時期と重なった。こんな春の喜びは、都会では決して味わうことはなく、大阪や東京の人間に話しても"決して"理解してもらえなかった。

ふるさとは心の拠りどころ
 大阪には40余年住んだので、第二の故郷と言えるが、それは幼年・少年・青春時代を過ごした"ふるさと"とは異質である。
 冒頭に書いたように、東京への単身赴任のさなか、母校の二水高校から講演依頼の電話が入った。何となく母校のことが気になっていたので、何かの因縁を感じた。自分の人生は、生まれてから現在までのすべての事柄の繋がりの上で営まれており、それらと無関係に起こるものはない。今から起こることは、過去にあった何かと結びついている。ふるさとは、死ぬまでふるさとであり、いくらカルチャーショックを受けても、心の拠りどころであり続ける。厳しくも優しい心のふるさと。♪夢路にたどるは里の家路・・・。

[後記]
 去る10月11日のからたちサロンに、私の拙文「ふるさとを出でて・・・自叙伝の法則」を掲載していただきました。今回はそれの続きです。少しでも共感していただける方がおられると嬉しいです。



能登宇出津の「あばれ祭り」
今井さん撮影
「もみじ」神戸市森林植物園で撮影
 今井さん撮影
「デモ行進」昭和35年秋、二水高文化祭で
岸首相の張り子「38H」や「全日本学生連盟」(全学連)
の文字が見える
◇プロフィール
金石中学―二水高校―大阪大学基礎工学部―大学院卒、大阪大学医学部、大学院生命機能研究科を経て、2002年より法政大学工学部教授(現在、生命科学部)。
幼年時代は能登で、少年時代を金石で過ごす。1961年、大学進学のため一人大阪へ。電気工学科卒業後、大学院から生命科学の世界へ。
以後、医学部生理学講座勤務。大阪で41年間過ごした後、2002年から東京の法政大学へ単身赴任。
週末に大阪の留守宅に帰って、趣味の写真と合唱を楽しんでいる。
法政大学生命科学部分子生体機能学研究室   http://www.hosei.ac.jp/seimei/seimeikinou/kyoshokuin.html



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