13期 南部健一さんから 寄稿頂きました。

反戦平和の熱望

        13期  南 部 健 一

 人間は闘争の遺伝子と平和希求の遺伝子を持つ。後者の遺伝子は壊れやすい。壊れると戦争になる。戦争で嘆き悲しむのは為政者ではなく人民である。
一人の女と一人の男の悲嘆に耳を傾けてみよう。そこには戦争に対する憤りと反戦の熱望が溢れている。女は東晋時代に呉に住んでいた子夜。後年、李白が子夜に成り代わって切ない思いを詠じた。

長安一片月 萬戸擣衣聲
秋風吹不盡 總是玉關情
何日平胡虜 良人罷遠征

空閨で独り見上げる満月。耳をふさいでも窓から聞こえて来る侘しい砧の音。秋風はいくら頼んでも吹き止まない。愛しいあんたは敦煌に出征したまま音信もない。寂しい、あんた寂しいよ。早く夷狄どもを皆殺しにして帰って来ておくれ。そして日も夜もなく私を抱いてほしい。

詩人王翰の親友が辺境の戦で戦死した。友を偲び独酌していると、黄泉の国の友が戦死前夜の戦場を語り始めた。

葡萄美酒夜光杯 欲飲琵琶馬上催
酔臥沙場君莫笑 古來征戦幾人囘

葡萄酒は紅く艶めく女の唇の色。なみなみと注いで俺はギヤマンの杯をあおる。もう一杯、もう一杯。どうにも止まらない。だれだ、馬上で琵琶をかき鳴らしているのは。折楊柳の曲ではないか。俺はまだ生きているぞ。酔いつぶれて砂漠にぶっ倒れても俺を笑うな。俺は明日出陣する。この辺境の戦で生きて帰って来た奴なんか、昔からほとんどいない。でも俺は死にたくない。生きて美味い酒を飲み、女も抱きたい。そこのあにい、もっと激しく、弦がぶっちぎれるまで琵琶をかき鳴らせ。

南部健一(13期) ◇南部健一(13期)東北大学名誉教授
南部健一(13期) 13期 南部健一 さんから
11月に上演予定の劇の脚本を投稿頂きました。<南部さんより>
愛とロマンの物語です。
和歌は詩吟で、地の文は朗読で上演されます。
匿名でも構いませんから、コメントをいただけると嬉しいです。
それを参考に脚本の改訂も試みたいものです。
◇南部健一(13期)東北大学名誉教授

人は命の限りを知るとき、心を許す人に会いたくなる。その人に会って、この世への未練を絶ちたいと思う。

福岡藩士平野國臣は藩命を受けて上洛することになった。それは生きては戻れない旅であった。後顧の憂いを絶つため妻を離縁し、國臣は、十一月に福岡を出立した。暗い山道にさしかかった時である。どうしてもある人に会っておきたいと思った。その人は同じ福岡藩の浦野勝幸の娘で、夫に死別し、今は剃髪し野村望東尼と号していた。この時國臣三十六歳、望東尼五十七歳であった。

二人の出会いは十七年前にさかのぼる。その年、望東(もと)の夫は隠居し、彼女は自分の山荘(平尾山荘)に隠棲した。望東は尊王攘夷の思想を抱いていたことから、山荘を尊王派の志士の密会場所として提供するなど、尊王派との交流が始まった。
國臣は尊王派同志として山荘に出入りし仲間たちと談じているうちに、望東に強く惹かれた。國臣は十九歳、望東は四十歳であった。

望東の聡明さ、意志の固さ、繊細さ、美貌、優しさ、すべてが國臣の心を捉えた。いや、國臣ばかりではない。尊王派の志士たちは皆、望東に憧れていた。一方、望東は、誠実で理想家肌の青年國臣の清々しさに強い好感を抱いた。ただ二人は、自分の気持ちを胸の奥に秘め、相手にさえ感ずかれることはなかった。互いに抱く積もる想いは片思いの純愛となり、十七年がすぎた。

 この三年前、望東は五十四歳で夫と死別し尼となったが、國臣が一人で望東尼の山荘を訪ねてきたのはその三年後の十二月一日であった。

「望東尼さん」
「あら、國臣さん。しばらくです。おひとりとは珍しいですね」

と言いながら、庭を掃いていた笹ぼうきを、欅の大木の根元にそっと置いた。そして

「どうぞお入りください」

と國臣を山荘の中へ招き入れた。これまで尊王の若い志士たちを鼓舞してきた望東尼の顏には、凛とした美しさが張りつめていた。
土間を越え板敷の部屋に上がるといろりがあり、火があかあかと燃えていた。

「どうぞ火のほうへ」

と言われ國臣はいろりのふちに腰をおろした。突然の来訪を丁寧に詫び、國臣が話し始めた。

「先の見えないこの乱世の中で、こうしてあなたに無事お会いできたことを何よりも嬉しく思います」

というと、望東尼はお茶をすすめながら

「旅支度のようですが、何か大変な心配事でも持ち上がりましたか」

と訊いた。

「実は藩命により上洛します。生きては戻れない任務であり、妻は離縁してきました。この世の最期の一時をあなたと過ごしたいと思い、訪ねて来ました。今夜はここに居させて下さい」

意外な言葉に望東尼は動揺したが直ちに國臣の心を知った。

「ありがとう、國臣さん。私のような老尼でよければどうぞお好きなだけここにいて下さい」

と言うと望東尼は立ち上がり、國臣に背を向け自在鉤に掛けた鉄瓶をはずした。お茶を入れ換えるようだ。後ろ姿の肩が震えている。國臣は望東尼の泣く姿を始めて目にした。國臣は後からそっと抱き締めた。望東尼の躰の震えは止まらなかった。

二人は激動する幕末の政治状況について意見を交わしたり、また共通の楽しみである和歌を詠み交わして過ごすことにした。
望東尼の心は激しく揺れていた。長年密かに愛して来た國臣に愛されていると分かった歓喜と、我が身の老いの哀しさ、國臣が近いうちに死ぬであろうという絶望の三つが、胸の奥でせめぎあった。しかしすぐに思い直し決断した。
―― 今夜は、私にとって愛する人と過ごす最初で最後の夜になるであろう。心の望むままに一夜を過ごそう、と。
長い片思いが相思相愛だったと分かったいま、躰が震えるような歓喜は、すべての迷いを消し去った。

「こんな大切な時に私を訪ねていただき嬉しく思います。國臣さん、今宵は、二人で過ごす一刻一刻が仏さまの贈り物のように思われます。お医者さまの見立てでは、私もそう長くはないようです」
「今夜は冷えますね。いろりの火を少し強くしましょう」

望東尼は燠をよけ火の上に薪を二、三本くべた。白い頬に揺らめく炎の影が、涙の跡を浮かび上がらせた。「こんなに美しい人だったのか」と國臣はこころで呟いた。そして愛おしくなりそっと抱きよせた。華奢な躰は國臣の胸にすっかり隠れた。望東尼から香のかおりが漂い、國臣は観音さまを抱いているような幻想にとらわれた。

「國臣さん、今夜は語り明かしましょう。歌も心おきなく詠み交わしましょう」
「ありがとう、望東尼さん。稚拙な私の歌ですがよろしくお願いします」

國臣がまず一首詠んだ

しのびつつ 旅たちそむるこよいとて

山かげふかき やどりをぞする

しのびつつ 旅たちそむるこよいとて

山かげふかき やどりをぞする

望東尼は目を閉じ、國臣の和歌をつぶやくように繰り返した。そしてゆったり返した。

ひとすぢにあかき道ゆく中やどに

かしてうれしき山のあれいほ

ひとすぢにあかき道ゆく中やどに

かしてうれしき山のあれいほ

二つの心がこだまのように響き合う見事な返歌であった。
茶碗を手に取り望東尼が話しはじめた。

「國臣さん、あなたは私の命です。どんなことがあっても生きていて下さい。女は、愛する人に二度と逢えなくても、その人がこの世にいるだけで生きて行けるのです。尼の私も女です。あなたが死んだら私も死にます」

「いけません、仏さまにお仕えするあなたがそんなことをおっしゃっては。どうかあなたは生きてください。そして私の菩提を弔って下さい」

望東尼は國臣の胸にしがみつき泣いた。國臣は泣く子をあやすように望東尼を抱き締めた。望東尼は消え入りそうな声で言った。

「どうぞ離さないで下さい。夜が明けるまで」

夜半すぎ、安心したのか望東尼は國臣の胸の中で眠ってしまった。

「男まさりの女と思っていたが、こんなに無邪気で情け深い人だったのか」

この時國臣は、何としても生きて福岡に帰り、望東尼を喜ばせたいと心に誓った。

國臣は安らかに眠る望東尼を胸に抱いて夜明けを待った。時折り望東尼の顏を覗き、

「かわいい望東尼さん、生まれ変わったら必ず一緒になりましょう」

とささやいた。そして、自分の人生が愛する人を抱き締めたまま終わろうとしている幸運に感謝した。

東の空に彩雲が現れた。と、同時に望東尼が目を覚ました。純白の袈裟の襟元を直しながら

「國臣さん、恥ずかしいわ、こんなはしたない恰好で」

「いいえ、どうぞこのままで。私はあなたを離したくない」

「でも私はそろそろ出立せねばなりません」

望東尼は國臣から離れ居住まいを正した。そして國臣の姿を心の鏡に焼き付けるように彼を見つめ歌を詠んだ。

をしからぬ 命ながかれ

桜ばな 雲居に咲かん はるを見るべく

をしからぬ 命ながかれ

桜ばな 雲居に咲かん はるを見るべく

歌は國臣の心に沁みた。無言で立ち上がり望東尼に一礼すると、刀と連雀をわしづかみにし戸口に向かった。戸を開けると雪が舞い込んできた。

足早に遠ざかる國臣を、望東尼は手を振って見送った。國臣は一度も振り返らなかった。涙を見られたくなかったのである。望東尼は國臣の姿が降る雪にかき消されても立ち尽くしていた。

(後日譚)

上洛した國臣は幕末の動乱に身を投じた。その頃の歌がある。

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば

烟はうすし 櫻島山

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば

烟はうすし 櫻島山

血がたぎるようなこの歌はその後の悲劇を予感させる。國臣に限らず、当時の尊王派の志士たちは、愛する女のために命がけで生きるより、幕藩体制を壊し新しい国を創ると言う夢に命をかけていた。人生には、好きな女と愛し合って生きることに勝るものなど一つもない。こんなあたりまえの発想がなかった。

最愛の望東尼と別れた翌年、國臣は京都所司代により正当な裁きもなく斬首された。三十七歳だった。その三年後望東尼は病没した。六十一歳だった。辞世の歌が残っている。

雲水のながれまとひて花の穂の

初雪とわれふりて消ゆなり

雲水のながれまとひて花の穂の

初雪とわれふりて消ゆなり

いまわの望東尼は雪空を見上げつぶやいた。

『初雪のようです。死して自由の身となれば、わたくしは雪道のなか、あの人の後姿を追います』

―― 了 ――

南部健一(13期)
13期 南部健一 さんから
創作の朗読劇の脚本を寄稿頂きました。
11月(2016年)上演予定とのことです。
◇南部健一(13期)
東北大学名誉教授

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浪漫詩吟劇場 「最上川舟歌」 作 南部健一(13期)

 古稀を前にして青木はもの思いにふける日々が多くなった。理由の一つは3年前に妻に先立たれたことである。しかしその生活にも慣れて来た。本当の理由は無常感である。時折り体が痛み夜も眠られず、命の限りを自覚したのである。眠られない夜は、今のうちに親しい友に会っておこう、と考えて過ごした。その思いは、高啓の漢詩を口ずさんでいる時決断に変わった。この詩人もまた友に会いたくて、ひとり山中を歩いている。 
  
水を渡り復た水を渡り 花を看還た花を看る
春風江上の路 覚えず君が家に到る

雪が降る前にまず早川夫妻を訪ねることにした。夫妻は最上川の峡谷沿いに小屋のような家を建てて住み、隠遁生活をしている。そこに行くには舟しかない。観光舟下りの船宿に立ち寄ると、客が来ないので船頭たちがひまを持て余していた。頭と思われる女に青木が声をかけた。
「対岸の仙人堂まで乗せてほしいのですが」
「承知しました。その前にまず私たちの合吟を一つおきかせしましょう。季節は少しずれますが『奥のほそ道』の『最上川』の章段です」
男たちが一斉に立ち上がり吟じ始めた。

最上川は陸奥より出でて 山形を水上とす
碁点・隼などいふ おそろしき難所あり
板敷山の北を流れて 果ては酒田の海に入る
左右山覆い 茂みの中に船を下す
これに稲積みたるをや 稲船というならし
白糸の滝は 青葉の隙々に落ちて
仙人堂 岸にのぞみて立つ
 水みなぎって 舟危うし
    五月雨を
       あつめて早し 最上川
       あつめて早し 最上川

最後の俳句は女船頭が独吟した。ひなびた中に艶のある吟だった。青木がほめると女船頭は上機嫌になり
「仙人堂までとは言わず、世界の果てまでご一緒しましょう」
と言った。男達がどっと笑った。

対岸に上がりさらに川沿いにけもの道を小一時間歩くと、ようやく早川の住まいにたどり着いた。
家の前に小舟が一そう置いてある。戸口で、青木です、と言うと早川の妻祐子が顏を出した。
「おひさしぶりです。お上がり下さい」
中に通されたが人気がない。お茶の用意をしながら祐子が言った。
「早川は去年亡くなりました」
その淡々とした口調は、まるで他人事のようだった。
「あの人は山頭火のような人でした。半年もいなくなったり、ふと現れたり。自分は何のために生きているのか、とよく自問していました。答えをさがす旅の途中で行き倒れになったのです。供養に、彼が好んだ山頭火の詩を時折り吟じております」
祐子が吟じ始めた。

  分け入っても 分け入っても
     分け入っても 青い山
     分け入っても 青い山

祐子の淡々とした吟調は早川の生き方を許しているように聞こえた。

祐子は、月に二、三度玄関先の小舟で最上川を横切り、戸沢村まで食料を買いに行くほかは、この山中の家で一人で過ごしているという。庭の畑で野菜を作っていたが、それが唯一の仕事らしい仕事だと言う。昔はクラッシック音楽が好きだったらしいが、隠遁してからは漢詩や和歌を楽しんでいるようだ。
「誰の漢詩が好きですか」
「李白と王維です」 
そう言えば、マーラーもこの二人の漢詩に感動して「大地の歌」を作曲している。祐子が言った。
「早川がいないので合吟ができない、それが残念です」
青木が
「ところでここから望む最上川の渓谷は李白の『天門山を望む』景色ですね」と言うと、祐子は目を輝かせた。
「そのとおりです。芭蕉もこの風景が気に入っていたようです」
祐子が李白を吟じ始めた。

 天門中断して楚江開く 碧水東に流がれて北に至って廻る

青木も加わった。

  両岸の青山相対して出づ 孤帆一片日辺より来たる 

二人の声は深山幽谷に吸い込まれて消えた。ついで祐子は李白の「山中問答」の二連目を吟じた。

  桃花流水沓然として去る 別に天地の人間に非ざる有り

祐子は青木が訊きたかった「あなたはなぜこのような山中に一人で住んでいるのか」に前もって答えたのであった。
青木は、自然と一体化して生きるのが祐子の本意かどうか知りたくて王維の「鹿柴」の一連を吟じてみた。

空山人を見ず 但人語の響きを聞く

祐子は目を閉じて聞き入った。青木は、「空山人を見ず」とは、「人恋しい」という叫びではないか、あなたは人恋しくはないのですか、と訊いた。
「寂しさはあります。しかし私は、孤独を紛らわすためにわずらわしい世間に身を置くより、孤独を愛して静かに生きたいのです」
青木は、自分に正直に生きようとする祐子の健気な姿にいとおしさを覚えた。

 いつの間にか日が暮れた。暗い大河を小舟で横断するのは危険だといい、祐子は青木に泊まって行くよう勧めた。青木は好意に甘えることにした。祐子が用意した一汁一菜の夕食を終えると、二人はろうそくの灯かりの下で、亡き早川も話題に加えて深夜まで詩歌や音楽、人生について、話しが尽きなかった。持参した酒に酔った青木を気遣い、祐子は布団を敷いた。横になった青木はまもなく眠入った。
山中の一軒家は深々と冷え、夜半すぎ、青木は寒くて目が覚めた。ゆかがきしみ、祐子が影のように入って来た。青木は人肌のぬくもりに包まれ、再び深い眠りに吸い込まれた。

夜が明けると台所からまな板をたたく音が聞こえてきた。青木が声をかけた。
「おはよう、祐子さん」
「おはよう、青木さん。眠れましたか」
「おかげさまで熟睡しました。…… 今夜もお願いします」
「はい」
即答した声が大きくて青木は笑った。祐子も両手で顔を隠して笑いながら
「声を出して笑うなんて何年ぶりかしら」
と言った。二人は庭に出て深呼吸を始めた。祐子は、今朝の山の空気はなぜか特別美味しいと感じた。

祐子は、青木に傾いて行く自分を止められなかった。止めるどころか、この人と永遠に一緒にいたいと思った。人生で初めて経験する恋心だった。
青木も祐子といるだけで深い安らぎを覚えた。祐子のもとを去りがたく、青木は半月滞在した。それは二人にとって、生きる喜びにあふれた日々だった。
祐子は、幸せすぎて怖かった。青木と目が合う度に祐子は、「回り道はしたけれど、私達は愛し合う運命のもとで生まれて来た」と思い、胸が熱くなった。

青木が出発する朝は初雪になった。祐子を見て青木は驚いた。いつも素顔の祐子が薄化粧をして立っていた。美しかった。寂しそうな顔を見て青木は胸が疼き、思わず抱き締めた。祐子は青木の胸の中で震えながら言った。
「きっと逢いに来て下さい」
そしてはなむけに和歌を一首吟じた。

もがみがわ 渡る舟人 かぢを絶え
         ゆくへも知らぬ 恋のみちかな
  
二人で小舟に乗り移ると祐子は見事に櫂(かい)を操り、青木を対岸に届けた。そして青木の姿が見えなくなるまで涙をこらえ手を振っていた。
青木と別れたその日からまたひとり暮らしに戻った祐子だが、青木がいない寂しさは想像をはるかに超えていた。時には、終日最上川の岸辺に茫然と立ちつくしていた。祐子に語りかけるのは、よどみに浮かぶうたかたの定めないつぶやきだけであった。
ひと月過ぎたある日のことだった。舟下りの女船頭が舟を流れにまかせて舟歌を歌いだした。歌詞は、ひとりの女が川下りの連絡船に乗り、尾花沢から故郷の酒田に帰る物語だった。女は、愛する男と別れ何もかも捨てて来たのであった。ふと右を見ると、重なる山々の向こうに二人で過ごした情け宿が見えて来た。女は愛し合った一刻一秒を胸に秘めて生きようと心に決めたのである。歌が終わると船頭は漢詩を吟じた。

   朝に辞す白帝彩雲の間 千里の酒田一日に還る    
両岸の猿声啼いて住まざるに 軽舟已に過ぐ万重の山

船頭の吟は祐子の心に沁みた。青木と過ごした短い日々は何もかも輝いていた。人生にそんな日々があったことに今は感謝した。祐子は、愛し合った日々を毎日思い起こし、今も彼と暮らしていると信じて生きることにした。こうして心の平安は取り戻したものの、青木のぬくもりが恋しく、時には、寂しくて眠られない夜もあった。そんな夜には和泉式部の歌が口をついて出た。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 
            いまひとたびの 逢ふこともがな

祐子は思い定めた。このまま青木に逢えず、この身が最上川の藻屑となろうとも、それもまた我が運命であると。


南部健一(13期)
13期 南部健一 さんから
ご自身が創作なさった朗読劇の脚本を寄稿頂きました。
◇南部健一(13期)
東北大学名誉教授

北上川_二水関東_1
11月に上演した朗読劇「無心の愛」の脚本を寄稿します。
脚本はすべて私の創作したものです。
仙台市泉地区吟詠発表会で11月23日に上演しましたが、なかなか好評でした。

司会者の作品紹介は、次のようなものでした。
『人はみな2つのふるさとを持っています。1つは生まれ育った村や町など、
 実際のふるさと。もう1つは心のふるさと、すなわち青春時代です。
 この物語では2つのふるさとが微妙に交錯します』

写真は劇の舞台となった、北上川のイギリス海岸(宮澤賢治の命名)で、
花巻温泉から近いです。

南部健一(13期生)

朗読劇 『無心の愛』

朗読劇 『無心の愛』  
作 南部健一 (13期) 
配役 青木(作者)、祐子(三原蘭岳)、朗読(藤村英風)

 昨年10月、青木は花巻温泉で開かれた吟詠大会に参加した。盛岡に住む高校時代からの友人祐子から誘いの手紙が来たのである。青木と祐子、祐子の夫木村武史は、大学時代親しかった。
もう40年前のことになる。卒業式の夜、祐子が青木のアパートを訪ねて来た。いっこうに用件を切り出さず、零時を過ぎたころだった。
「私、木村君にプロポーズされているの。でも迷っているの」
なぜ迷うのか、青木には分からなかった。青木も祐子を愛していたが、彼は、木村と祐子が恋仲だと知り身を引いた。祐子の言葉に青木は動揺した。古いストーブを挟み、二人は無言のままうつむいていた。思いつめたように祐子が言った。
「今夜は、ここに泊めてください」 
それでも無言の青木を見て、子供のように泣き出した。青木は祐子の一途な思いを知り、心が乱れた。1 時を回ったときである。青木は冷たく言い放った。
「君を愛している。しかし木村を悲しませることはできない」
二人は黙したまま、時間だけが過ぎていった。午前2時、祐子が言った。
「一つだけ約束して。毎年一度だけ手紙を書きます。必ず返事を下さい」
約束は守ると言う青木の言葉を聞き、祐子は帰り支度を始めた。
二人でアパートの玄関を出ると、吹雪がうなり声を上げていた。風に吹き倒されないよう、青木は祐子を抱きかかえて歩いた。祐子は何度も立ち止まって青木にすがりつき、「帰りたくない」と声を上げて哭いた。しかしその哀切な願いは、風にかき消された。
 あれから40年、一度も欠かさず、晩秋には祐子から一通の手紙が届いている。3年前の手紙には、夫が心筋梗塞で亡くなった、とあった。今年の手紙で初めて、祐子が青木に会うことを望んだのである。なぜなのか、青木には見当もつかなかった。

 吟詠発表会場のロビーは人々であふれていた。青木を見つけた祐子は、人ごみをかき分け走り寄って来た。着物姿だった。道行は、竹堂の近江八景を絵柄にした千總の友禅だった。琵琶湖の湖面を這う松の枝が、霧に消える絵柄であった。青木は祐子の美しさになぜか不吉な予感がした。
「青木さん、本当におひさしぶりです」
「40年ぶりですね。私の顔が分かりましたか」
「あなたは変わっていないわ。今夜はゆっくりお話ししたいの。夕食はご一緒しましょう」
祐子はつとめて明るく振る舞っているように思えた。しかし穏やかな瞳の奥に、時おり深い悲しみがのぞくのはなぜなのか。
「夫も子供もなく、今の私は趣味の詩吟が支えです」
「今日は、青木さんは何を吟題に選んだの」
「祐子さんとは故郷が同じ金沢で、二水高校でも一緒でした。だから、あの時代を偲んで室生犀星の『犀川』を選びました」
「そうですか。それは楽しみですね。あのころが懐かしいわ」
まもなく青木がステージに立ち吟じ始めた。

 うつくしき川は流れたり
 そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの
 花つける堤に坐りて
 こまやけき本のなさけと
 愛とを知りぬ

祐子は思い出していた。高校3年の5月、青木に誘われ犀川の河口を訪ねたことを。そこには、アカシアの白い花が咲き乱れていた。頭上から降り注ぐ甘い香りに包まれ、祐子は恋の予感に胸を熱くした。

「そろそろ私の出番だわ。聴いて下さいね」
 祐子が登壇するとステージが花やぎ、会場がざわめいた。吟題は良寛の「無心」だった。

 花は無心にして蝶を招く 蝶は無心にして花を尋ぬ
 花開く時蝶来たり 蝶来たる時花開く

祐子の艶のある声は美しく、吟は、人の世の無常を感じさせた。
自己と他者の関係は無欲がいい、と言うのが良寛の考えであろう。なぜ祐子は「無心」を吟題に選んだのか。男と女が毎年たった一通の手紙で40年間心を通わせる、これを祐子は「無心の愛」と考えたのではないか。
 
 夕方二人はホテルのレストランで待ち合わせをした。岩手の冷酒をくみ交わし、青木は祐子の言葉を待った。
「今日は、どうしてもお会いしたかったの。来ていただいて嬉しいわ。あなたの吟詠「犀川」、涙がこぼれました。昔、二人で見上げたアカシアの花を思い出したの」
「白い花の房が風に揺れていましたね。はっきり覚えています。ところで、今日は、なぜ『無心』を吟題に選んだのですか」
「仲間から、花と蝶は誰をイメージしているのかって、ひやかされました。今夜は私とあなたにしておきましょう」
祐子は軽口をたたいて、はぐらかした。そして顔色も変えず
「これがお会いできる最後になるわ。医師から余命六ヶ月の宣告を受けているの。癌が転移したらしいの」
「抗がん剤でやつれ、あなたに会えない姿になるくらいなら、命は惜しくないの」
青木は信じがたかった。
「この千總の友禅はお棺に納めてほしいって、遺言してあるの」
「人は、命の限りを知ると、愛する人の顔を毎日思い浮かべるものよ。そしてその人に会って、悔いなく灰になりたいと思うの。私は、私が愛したただひとりの人に会い、命の幕を下ろしたいのです」
青木はうつむいて涙をこらえた。

 レストランは閉店になった。二人は青木の部屋で呑み直すことにした。日本酒が好きな二人は、それぞれ好みの酒を用意していた。青木が日高見を取り出すと、祐子は自分の部屋から、あさ開のひやおろしを持ち帰った。
青木のグラスに酒をつぐと祐子が言った。
「今夜は呑みましょう。あなたと私の最後の夜だから」
二人はグラスを重ねた。祐子は酔い、白いうなじが桜色に染まったが、背筋が伸びた美しい姿は、昔のままだった。
午前二時になった。カーテンを少し開けると西の空に月が輝いていた。二人は寄り添い月を眺めた。同じ月が二人の故郷、金沢の夜空にも輝いていると思うと、青木は望郷の念にかられた。青木の心を察した祐子は李白の「静夜思」を吟じ始めた。

牀前月光を看る 疑うらくは是れ地上の霜かと
頭を挙げて山月を望み 頭を低れて故郷を思う

「今夜の月は特別美しいわ。あの辛かった吹雪の夜のこと、許してあげようかな」
祐子は笑いながら青木をにらんだ。そして二人はまた酒を酌み交わした。
「楽しかったわ。でも私、酔いました。今夜はこの部屋で休ませてね」
「どうぞ、祐子さん」
「嬉しいわ。40年前は追い出されたわ」
祐子は大げさにバンザイをした。青木は胸が痛んだ。青木は、酔った祐子に肩を貸し、ベッドに寝かせた。そして自身に問いかけた。
「今夜は冷えた体を暖め合って一緒に眠るのが祐子の望みかもしれない。しかしそれは酒に酔った上での一時の気の迷い。そのような行為は、祐子が望んで来た『無心の愛』とは相いれないのではないか」。
結局青木は、ソファで眠ることにした。そして、この距離こそ、四〇年続いた無心の愛にふさわしいと思った。祐子はすぐ眠りについた。安らかな祐子の寝顔を見て安心し、青木は望東尼の和歌を静かに吟じた。

をしからぬ 命ながかれ 
桜ばな 雲居に咲かん はるを見るべく

吟が終わると、眠っていたはずの祐子の目から涙がこぼれた。青木はハンカチで祐子の涙をぬぐった。限りなく愛おしかった。青木は思いがあふれしばらく眠れなかった。

翌朝二人は、北上川のイギリス海岸に向かった。堤防から見下ろすと、川は渦を巻いて勢いよく流れ、ふるさとの大河、犀川の、蒼い波をたたえていた。その時である。桟橋の方で人声がした。昨日の吟詠大会に金沢から参加した一行が、室生犀星の『小景異情』を合吟し始めたのであった。

ふるさとは 遠きにありて 思ふもの
そして 悲しく うたふもの
よしや うらぶれて 異土の乞食と なるとても
帰る ところに あるまじや

切々たる望郷の調べが身に沁み、祐子は泣いた。青木は祐子を抱きよせ、目を閉じて朗々たる吟にひたった。一行の合吟が終わると、祐子は青木を見つめ、涙もふかず、「ありがとう」とつぶやいた。これが祐子の最期の言葉となった。

翌年はいつもの晩秋がすぎ、さらに雪が降っても、祐子から手紙が来なかった。それは、無心の愛に生きた祐子が、千總の友禅におおわれて、永遠の眠りについたことを物語っていた。
 


kawai
4期 河合 聡さんより北村先生追悼の文章をお寄せいただきました。
◇河合 聡(4期)
第1回高峰賞受賞者
元岐阜薬科大学教授

北村澄江先生はまれにみる素晴らしい方でした。
私の生涯に刻み込むような影響を与え続けて下さいました。このことにまずお礼を申し上げたく思います。

先生の人柄は天性のものかもしれませんが、天衣無縫とでも言いましょうか、
天真爛漫な明るさ、来るものは拒まず、去る者は追わずとでも言いましょうか、
屈託なくこだわりもない。どんな人とも、分け隔てなく接しられました。

そして、誰からも愛されました。才気煥発、しかし、決して出しゃばらない。
頼まれたこと、頼りにされたことは断られなかったのではないでしょうか。
生き方に打算がなく、栄誉を求められるところは微塵もありませんでした。

北村先生は、二水高校が誇る、そして私たち同窓生も誇りに思う、
まさに「からたちは匂う」ような先生でした。

北村澄江先生
  北村 澄江 先生

◇河合 聡プロフィール
昭和3年生、諸江小―金商―二水(4期)、東大医学部卒、元厚生省国立衛生研究所、元岐阜薬科大学教授
著書: 「地球環境の今を考える」(共著)丸善(2008年)
    「暮らしの中から見る地球を蝕む環境問題」東銀座出版社(2007年)
    「もう一度「人間」の不思議を考えよう」西田書店(2008年)
    「老いてこそ輝け」新日本出版社(2010年)
    「放射線とは何か」(共著)丸善(2011年)

浪漫百選――夕焼けの観音菩薩(撮影  小川光三)

南部健一(13期)
昨年10月に開かれました二水高校同窓会関東支部総会で講演頂きました南部先生が、2015最初のからたちサロンへ投稿をお寄せくださいました。
◇南部健一(13期)
東北大学名誉教授

 人は、ひとりでは生きられない。死が身近なものとなったとき、なぜか
救いの手を差しのべてくれる人が現われる。川瀬悟一もそんな一人である。

 思慮深い悟一は、少年時代から人が生きる意味について考えながら日々を過ごしていた。18歳になったとき悟一は深い無常観にとらわれた。そして生きることに意味はないのではないか、と悩んだ。大学もほとんど行かず、お気に入りの犀川、浅野川、河北潟、内灘の浜などを訪ね、木陰に自転車を止めて考えにふけった。

 10月のある日、悟一は浅野川河口を訪ねた。実りの秋には稲を満載した舟が行き交う美しい水郷地帯だが、今は収穫も終わり見渡す限り殺伐とした田園風景が続いていた。堤防は自転車のハンドルを越える丈の高い雑草におおわれ、遠くからは人の存在すら気づかなかったであろう。悟一は草の上に自転車を倒すと、脇に腰を下ろし川の流れを眺めていた。ヨシキリが鳴き始めた。空が曇り雨がぽつぽつ当たって来た。冷たい雨だった。悟一は雨具を持たなかった。対岸には舟小屋が見えたが、こちら側には何もなかった。また、橋はかなり遠い蚊爪の村まで戻らないとなかった。
 なぜか急いで堤防の細道を引き返す気にもなれなかった。雨は帽子をぬらし、上着にしみ込み、肌着を濡らし、体に届いた。しかし、ただなすがままにしていた。漠然と、やがて体が冷えきって自分は死ぬのであろう、と思った。しかしそれが特別重大なこととも思われなかった。冷たい雨は、悟一から生きようという意志を奪った。いや、彼はすでに思考をほぼ停止し、その事実に身をまかせていた。遠ざかろうとする意識の中で、自分の亡き骸を見た母の悲嘆を想像したが、それも一瞬に過ぎ去った。しだいに眠くなってきた。

 誰かが自分を呼んでいる気がした。その声は次第に近づいた。気だるい頭を持ち上げ目を開くと、雨にけぶる対岸からから一艘の舟が滑るように近づいて来た。雨傘をかぶった船頭は舳を岸の葦に突っ込み、川底に竿を突き刺して舟を止めると、悟一に「乗れ」と手で合図した。放心状態の悟一は言われるままに舟に乗り移った。船頭は岸に上がると悟一の自転車をかかえて舟に戻った。そして、何事もなかったように、巧みに竿を操り対岸に向かった。船頭は終始無言だった。

 舟小屋に着くと船頭は悟一を中に招き入れた。囲炉裏には薪が赤々と燃えていた。船頭が雨傘をぬいだ。悟一は初めて女だと気付いた。女は「乾かすから着ているものをすべて脱ぎなさい」と言った。悟一は裸になると女に背を向け囲炉裏の縁に坐った。ぬれた服を受け取ると、女は無言で服をあぶり始めた。白い頬に炎が揺らめいた。40代後半だろうか。粗末な野良着を身にまとっているが、どこか気品のある顔立ちだった。時折パチパチと火がはじけた。
 一言もなく二人は囲炉裏を囲んでいた。小一時間も経っただろうか。
「乾いたようです。これを身につけなさい」
と言うと悟一に服を手渡した。袖を通すと暖かかった。人の情けが身に沁み、涙がこぼれた。女は薪をくべながら話し始めた。

「命は大切です。命は預かりものなのです。あなたのものではないのです」
「生きることに意味があるかないかは、あなたに命をあずけた仏さまがお決めなさることです」
悟一は訊いた。
「あなたは尼ですか」
女は答えた。
「いいえ、私は平凡な農婦です。夫に先立たれ、この季節には川魚を取って暮しのよすがとしています」
悟一は訊いた。
「あなたは生きていて幸せですか」
「もちろんです。雨も上がりました。あなたにわたしの幸せを見せてあげましょう」

 女は悟一を誘い舟小屋の前の小道を河北潟に向かって歩き出した。5分も歩くと潟に出た。壮大な夕焼けが空をおおい湖面を染め、人の丈の2倍もある葦が風の助けを借りて、美しい空を掃いていた。これが女の幸せだったのか。悟一は声をあげて哭いた。女は悟一をそっと抱き締め、彼の嗚咽が止むのを待った。悟一は知った。
「この人は観音さまに違いない。そして自分は今、この人の溢れんばかりの愛に包まれている」と。

 舟小屋に戻ると女はほうじ茶をいれてくれた。温かかった。また涙が出そうになった。悟一は万感の思いを込め女に礼を述べた。別れ際に女が言った。
「若いあなたは、どんなに辛いことがあっても生きるんですよ。命があれば、いつでもあの美しい夕焼けを私と共に見ることができますから」
この言葉は、生涯悟一に語りかけた。

◇南部健一プロフィール
1943年 金沢市千田町生まれ、二水高校(1961)―金沢大工学部(1965)-東北大学大学院博士課程卒(1970)、工学博士。
東北大学流体科学研究所(旧 高速力学研究所)教授(1986)、2006年 東北大学を定年退職、東北大学名誉教授
100年余学界の難問と云われたボルツマン方程式(Boltzmann equation)の解法を1980年世界で初めて発見、その功績によって2008年 紫綬褒章受章
著書: 「果てなき海に漕ぎ出でて」(丸善)仙台出版‘88)、「乱れる」(オーム社、1995)
南部健一ブログ「 果てなき海へ漕ぎいでて 」
http://blogs.yahoo.co.jp/nanbukenichikitagawaissei
南部健一(13期)
南部さんには東日本大震災の傷も生々しい2011年9月、前作「浪漫百選・・・満ち来る潮」を寄稿いただきました。あれから2年以上の時間が過ぎましたが、これら作品の舞台である北上川の下流域には未だ津波の記憶がはっきりと残っています。私自身震災を挟んで石巻に足繁く通い、作品に描かれた情景がとても身近に感じられます。
それでもこの4月辺りから石巻にも喫茶店や趣味の店が営業を始め、やっと本来の市民生活が戻って来た感があります。とは言えこの短編に描かれた「女」のように、生き残った人々がそれぞれに決して消えることのない想いを持って時を過ごしていることが感じられます。
(広報担当 池田志朗)
◇南部健一(13期)
東北大学名誉教授

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北上川の芦原をわたる風は「日本の音百選」に選ばれている。この美しく雄大な大河で終日投げ釣りの竿を振っていると、男に生まれてよかったと思われてくる。今まで何十回北上川を訪ねたことか。しかし3.11の大震災の後、一度も訪ねていない。大川小学校の生徒をはじめ多くの人々が、私が特に気に入っている河口付近で命を落としたから。今年ももう7月、あれからはや2年4ヶ月が過ぎた。久しぶりに北上川河口に出かけてみた。一応魚釣りの用意もしていた。しかし川は震災前の面影をとどめていなかった。南側の堤防は大津波に破壊され、消えていた。北側の堤防の水際には頑丈な鉄板が打ち込まれ、高い鉄の壁は延々と続いていた。
 魚釣りどころではなかった。美しかった葦原も津波の猛威に無残に踏みにじられていた。ただ、長面橋の少し上流の一画に、葦の緑が拡がっていた。葦の丈はまだ私の腰までしかない。堤防を下りて葦の間を歩いた。しばらく行くと、合歓の木が一本、花をつけていた。 さらに進み川岸に向かった。岸辺には、こちらに背を向けて女の人がひとり立っていた。女は流れに対面して漢詩を吟じていた。私は歩みを止め、葦の間に立って聴き入った。杜甫の「岳陽楼に登る」だった。私に気づかず女は朗朗と吟じ続けた。

 「親朋一字無く、老病孤舟有り」(親類からも朋友からも1通の便りさえない。老いて病いがちの我が身は、この大河の岸辺に打ち捨てられた小舟のような存在か)

  この一節に差しかかると女はむせび泣いた。吟が終わると女は無言で水面をながめていた。近づいて声をかけた。
「すばらしい吟でした。失礼ながら聴かせていただきました」
女は驚いて振り返り、 「お恥ずかしいです」とほほえんだ。
歳は60代半ばか。凛と張った涼しい目もとが美しい。そして
「あなたも詩吟をなさるんですね?」と聞き返した。
「まだ教わって半年ですが、杜甫の『岳陽楼に登る』は好きです」
「そうですか、それは嬉しいですね。ここでお会いしたのも何かのご縁ですね。あつかましいですが、連吟をしませんか」と女が言う。
連吟ははじめてであり少し迷ったが、引き受けた。
 私たちは「五言律詩」の2行を交互に吟じた。二人の声は美しく響きあい北上川に漂った。終わった時、互いに親しみを感じたのは自然なことだった。女は祐子と名のった。
 祐子さんは話し始めた。
――詩吟は主人と一緒に習っていて、よく二人で連吟をしたものです。でも、3.11の津波で主人は流され今も行方知れずのままなのです。今はもうあきらめましたが、優しかったあの人を想うと、愛する人を亡くしても生きていかねばならないこの身がつらいのです。
 でも今日、はからずもあなたと連吟ができて大変うれしく思います。きっと悲しんでばかりいる私を憐れんで、あの世の主人があなたをここに寄こしてくれた、そんな気がするのです。
 住んでいた長面の町は津波の後、海の中に沈んでしまいました。今はすぐ近くの「にっこりサンパーク」という高台の仮設住宅に一人で住んでおります。もしお急ぎでなければ、お寄りになりません?お茶を差し上げたいのですが。

 私は祐子さんの親切をありがたく受け入れ、仮設住宅を訪ねた。仏壇に向いご主人の遺影に手を合わせると、お茶をいただいた。香りのよいお茶だった。
「少しお待ちください」
と言うと祐子さんは姿を消した。数分して着物姿で現れた。私には着物の知識はないが訪問着だろうか?淡い花模様の明るい着物だった。祐子さんが座ると、部屋は灯をともしたように明るくなった。
「仮設暮らしでは時おり気持ちが沈みます。そんな時には着物を着て過ごしますの」 と、少女のようにはにかんだ。
 祐子さんは震災の話には触れず、私たちはお気に入りの漢詩の話をして過ごした。彼女は好きな王維の詩を、私は李白の詩を、声を抑えて吟じた。最後に祐子さんは和歌を一首吟じた。それは額田王の恋歌だった。

 君待つと我が恋ひ居れば 我がやどの
   簾動かし 秋の風吹く (序詠)
 君待つと我が恋ひ居れば 我がやどの
  簾動かし 秋の風吹く (本詠)
 哀しく美しい響きだった。淡々とした序詠のあと、本詠で彼女は心中を劇的に表現した。私は胸を打たれた。それは、祐子さんが心の中で、帰って来るはずのない夫をいまも待ち続けていると直感したから。
 帰り際に祐子さんが、
「こんなに楽しく過ごしたのは本当に久しぶりです。ありがとうございました。北上川にいらしたときは、きっとお寄り下さい」
と礼を言った。
私は 「どうぞお元気で」
と言って玄関を出た。雨が当たって来た。彼女は大きな傘を一本拡げた。私達は車を止めた空き地まで並んで歩いた。「さようなら」と言って車を発車させた。バックミラーに写った祐子さんの姿は、雨に打たれている合歓の花のように、ほの暗い空間に明るく浮かび上がっていた。立ち姿は次第に小さくなったが、祐子さんはずっと手を振っていた。姿が消えると、前方に雨にけぶる北上川が現われた。車は、工事中の堤防の水たまりにハンドルを取られる度に大きく傾いた。車に揺られながら、私は、一期一会という言葉を思い出していた。

◇南部健一プロフィール
1943年 金沢市千田町生まれ、二水高校(1961)―金沢大工学部(1965)-東北大学大学院博士課程卒(1970)、工学博士。
東北大学流体科学研究所(旧 高速力学研究所)教授(1986)、2006年 東北大学を定年退職、東北大学名誉教授
100年余学界の難問と云われたボルツマン方程式(Boltzmann equation)の解法を1980年世界で初めて発見、その功績によって2008年 紫綬褒章受章
著書: 「果てなき海に漕ぎ出でて」(丸善)仙台出版‘88)、「乱れる」(オーム社、1995)
南部健一ブログ「 果てなき海へ漕ぎいでて 」
http://blogs.yahoo.co.jp/nanbukenichikitagawaissei
◇高田敬輔(10期)
今回は編集者自ら登場させていただく。デジカメも1眼カメラが廉価になり、写真を趣味とする人々もさらに増え、誰もが何とか上手になりたいと思う。母校初代バトミントン部で全国制覇に導いた元教頭の故森川憲三先生は80才からNHKの写真講座を受講し、何度も優秀賞を得、NHK会長から生涯学習賞まで受賞された。
 平成14年5月、小将町常福寺で先生に「森川憲三生涯学習写真展」を開催していただき、30点ほどの作品と100点を超える添削記録を披露いただいた。写真展開催してからはや10年たった。・・・写真は今もWebから見ることが出来る。
 このWebを見るだけでも写真への興味と自信が涌く。 先生は平成19年100歳の天寿を全うされたが、本稿とWeb公開に協力いただいたご長男の森川宏さんに感謝します。
(編集者;高田敬輔)
◇高田敬輔(10期)
二水高校同窓会
前関東支部長

恩師、数学の森川憲三先生は二水開校以来昭和37年まで在任された。私は昭和30年の1年生と次年2年生のときの学級担任いただき、卒業後も時々笠舞のご自宅にもお邪魔したことがあった。家族が成長すると帰省の機会も減り、お会いすることはほとんど無くなったが年賀状だけは続けていた。
 2000年に定年退社となり、コンサルを開業しはじめたところ県からお誘いがあり、産学官連携研究開発事業を支援するため2002年1月から金沢に単身生活をすることになり、久々に先生宅を訪問した。 先生は昔のままお元気で部屋には沢山の写真が飾ってあり、80歳から始めたというNHKの写真生涯学習通信講座の沢山の作品と添削記録を見せられ、NHK会長より生涯学習賞を受賞したことまでお話いただいた。

 通信講座は毎月の2枚の写真を提出すると講評が帰ってくる。優秀作品は機関誌に掲載されていた。私は作品もさることながら、80歳を超えてから、なおも通信講座を続けている先生の熱心さに感動し、このことを皆に伝えたいと、写真展を構想した。
 先生は初代バドミントン部の部長をされていたので、まず、母校のバトミントン部コーチをしていた片町の老舗下駄屋・奥村明義君(10期)に相談したところ、全国大会を制覇した時の選手で小将町の常福寺17世住職北方匡さん(8期)を紹介いただいた。 森川先生は常福寺の檀家でもあった。その前年、住職は寺の一角に「北方心泉記念館」を開館し、ミニコンサートのできるくらい多目的ホールも備えたばかりだったので、そこを会場にお借り出来た。

 会場のレイアウト等は尾張町近岡写真館の近岡房治社長(11期)が引き受けてくれ、入賞作品30数点が飾られ、中央机には100点近い添削記録が用意された。
 二水同窓会には当時副会長の竹下栄子さん(8期)を通じて後援をお願いし、通信講座を主宰する国立市にあるNHK学園も訪ね、趣旨を説明して後援戴いた。   広報は案内はがき1000枚を関係先に配り、同窓会、奥様のコーラス仲間である「高砂合唱団」にも協力戴いた。

 平成14年5月15日から19日の5日間、同窓会、バトミントン部有志に会場当番をお願いし、500人以上の来場者があり、先生も連日、来られた方々に丁寧に挨拶と説明されて、好評里に無事終了することが出来た。

特筆すべきことが二つある。 NHK金沢に報道をお願いしたところ、若いキャスターがひとりで取材と撮影に来た。
 確か週末の「ギャラリー紹介」の時間に10分間放映された。
 キャスターは4月に入局、金沢放送局に配属されたばかりの亀井和恵さん(49期)だった。二水生だったこともご縁だが、取材からナレーション、画像編集まで番組制作のすべてを任せるNHKの新人教育も立派と感心した。

 写真展が終了して6ヶ月くらい経った頃、山田捷二君(13期)がホームページを作ってくれることになった。
 
このHPは今もWeb検索するとリンクできるようになっている。
 ◆森川憲三生涯学習写真展;http://shoji16.web.fc2.com/ga-morikawa/index.html

 先生は平成19年夏100歳の天寿を全うされたが、いまもWebを通じて「写真の楽しみと高齢時代の生き方」を教えてくれる。(合掌)

<作品の解説>
 牡丹   平成7年(88歳)
 説明; 花と光線の最も良い時を狙ってみました。
 講評; サンルームのガラス越しの光りでしょうか、やわらかい晩春の明るさが全体にまわり、強い影もなく、白からピンクへのぼかし染めのような重なった花弁、中心部の鮮やかな黄色と虹紫色、それぞれがうまく表現されました。バックが暗く落ち、濃緑の葉がしっかりと主役を支え、浮き立って見え効果的です。

 雪降り  平成5年 (86歳)
 説明; 兼六園で成人式帰りの娘さんたちと降る雪の美しい光景に遭遇しました。
 講評; 兼六園の雪つりの松が降り積もる雪に点描写のようにバックを見せていて面白いですね。その中の色とりどりの傘を差した人が4人。何やらお話が展開しそうな人たちが降りしきる雪のベールを通じておぼろげに見えてくるのが魅力です。

◇高田敬輔プロフィール
押野中学―二水高校(昭和33年卒10期生)―金沢大学工学部(昭和37年)―㈱東芝
2000年定年退社ワイズ福祉情報研究所設立、石川県研究事業コーディネータ、金沢工大非常勤講師等歴任、
現在、金沢二水高校同窓会関東支部長、ブログ「平成・技士道」を通じて、若い技術者にエールを送る。
高田敬輔一ブログ「 平成・技士道 」
http://wiselabo.air-nifty.com/
◇得猪外明(7期)
 オノマトペの研究でも有名な神田雑学大学の得猪外明博士(7期)に久々にご登場戴きました。
「美しき川流れたり・・」・のとおり犀川、浅野川を遊び場とした二水生も多く、外からは羨ましく思われる。
 最近は佃煮のごりは知るものの、あの茶目っ気な顔を知る人も少なくなった。浅野川のごり屋も廃業したという。
  ごりのうん蓄を拝読しながら、金沢の「ごり文化」も永続することを期待したい。
(編集者;高田敬輔)
◇得猪外明(7期)
( とくい そとあき )
神田雑学大学理事

少年時代はよく犀川で遊んだ。縄張りは大橋の下から鉄橋あたりであった。
 転校生で言葉もよく通ぜず一人で遊ぶのが気楽だった。 最初に熱中したのが石の下にいるごりをヤスで突くことだった。手に三十センチほどのガラス箱で川の底を覗き、大きめな石をそっとどかすとごりが鎮座している。電光石火の早や技でヤスで突くのである。

 毎日勉強そこのけで川に入っていたのでごりに詳しくなった。川底に生息する淡水魚で、ハゼ類に典型的な大きな頭部、飛びだした目、大きな口などが特徴である。
 犀川のごりにもたくさんある。から揚げ、てり焼、城味噌仕立ての鮴汁など高級料亭で珍重されているようだが、それほどうまいというものでない。
 第一本物のごりが少なくなった。
 今,幻の高級魚となったカジカゴリを採る人もいなくなった。これを採るには深さ15ンチ程の清流れの底を鍬で均して石の大きさも5~10センチにととのえ、上流に向かって幅2メートル、奥行き2メートルほどの石の防波堤を作って 先に直径1メートルほどの竹ざる(どじょうすくいに使う)をセットする。
 準備ができたらゴリが遡上するように一時間ほど待つ。そこで雪掻きの時に使う板で 一気に上流に石ごと押し込むのである。これをごり押しという。ごりをつかまえようとすると、スッと行っては止まり、行っては止まる。 鮴という漢字も、ごり押しという表現もごりをよく観察した結果である。カジカゴリは頭がおおきく角ばった姿で、主に上流に住んでいる。

 わたしたちがよく採ったのはザラッとして頭の丸いのが多い芋ごりと、すらりとしたアメ色で、顔淡、淡青の血管が見え、吻の少しとがったアネサンゴリだった。
 芋ごりに似ながら、もっと横幅もあり顔をおおきくズングリ大柄なものをぐずといって簡単に捕まえられた。
 ぐずという表現もよく出来ている。
 ほかにキンチャクゴリというのは淡褐色、河北潟で採り平桶に入れて入れたのを頭に乗せて女が売りに来たのが、この種類で、金沢名物ごりの佃煮の原料である。
 ごりは地方によって呼び方も料理のしかたもいろいろある。数年前四国の四万十川河口の料理屋で食べたごり丼というのは500円と値段も安くお勧めである。

gori01 スッピンのごり
      (「金沢おいしい店ドットコム」より)
 ◎ごりに関するWeb情報
   ◆Wikipedia:ごり
   ◆金沢おいしい店ドットコム
    ◆ごり屋(写真)

◇得猪外明(とくいそとあき)プロフィール
1937年金沢生、二水高校―金沢大学経済学部―JFEスチール㈱(旧日本鋼管)出身
 NPO法人神田雑学大学 理事
 コケコッコーから擬音語・擬態語の世界にはまり、さらに日本語はどうしてできたか、日本人は何処から来たか、なぜ人間だけが話すことが出来るのかなど雑学に終わりはなさそうです。
神田雑学大学は毎週金曜日開校していますので、遠慮なくご来校ください。
著書: 「へんな言葉の通になる」祥伝社新書 2007
小説 「見性庵聞き語り」  北國文華 35号 2008春
    「報国石川号」    北國文華 36号 2008夏
     「田端金沢村」    北國文華 38号 2009冬
    「反魂丹役所薩摩組」 北國文華 45号 2010秋
    「塩硝街道」     北國文華 49号 2011秋
神田雑学大学HP
http://www.kanda-zatsugaku.com/