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13期 南部健一 さんから
11月に上演予定の劇の脚本を投稿頂きました。<南部さんより>
愛とロマンの物語です。
和歌は詩吟で、地の文は朗読で上演されます。
匿名でも構いませんから、コメントをいただけると嬉しいです。
それを参考に脚本の改訂も試みたいものです。 |
◇南部健一(13期)東北大学名誉教授 |
人は命の限りを知るとき、心を許す人に会いたくなる。その人に会って、この世への未練を絶ちたいと思う。
福岡藩士平野國臣は藩命を受けて上洛することになった。それは生きては戻れない旅であった。後顧の憂いを絶つため妻を離縁し、國臣は、十一月に福岡を出立した。暗い山道にさしかかった時である。どうしてもある人に会っておきたいと思った。その人は同じ福岡藩の浦野勝幸の娘で、夫に死別し、今は剃髪し野村望東尼と号していた。この時國臣三十六歳、望東尼五十七歳であった。
二人の出会いは十七年前にさかのぼる。その年、望東(もと)の夫は隠居し、彼女は自分の山荘(平尾山荘)に隠棲した。望東は尊王攘夷の思想を抱いていたことから、山荘を尊王派の志士の密会場所として提供するなど、尊王派との交流が始まった。
國臣は尊王派同志として山荘に出入りし仲間たちと談じているうちに、望東に強く惹かれた。國臣は十九歳、望東は四十歳であった。
望東の聡明さ、意志の固さ、繊細さ、美貌、優しさ、すべてが國臣の心を捉えた。いや、國臣ばかりではない。尊王派の志士たちは皆、望東に憧れていた。一方、望東は、誠実で理想家肌の青年國臣の清々しさに強い好感を抱いた。ただ二人は、自分の気持ちを胸の奥に秘め、相手にさえ感ずかれることはなかった。互いに抱く積もる想いは片思いの純愛となり、十七年がすぎた。
この三年前、望東は五十四歳で夫と死別し尼となったが、國臣が一人で望東尼の山荘を訪ねてきたのはその三年後の十二月一日であった。
「望東尼さん」
「あら、國臣さん。しばらくです。おひとりとは珍しいですね」
と言いながら、庭を掃いていた笹ぼうきを、欅の大木の根元にそっと置いた。そして
「どうぞお入りください」
と國臣を山荘の中へ招き入れた。これまで尊王の若い志士たちを鼓舞してきた望東尼の顏には、凛とした美しさが張りつめていた。
土間を越え板敷の部屋に上がるといろりがあり、火があかあかと燃えていた。
「どうぞ火のほうへ」
と言われ國臣はいろりのふちに腰をおろした。突然の来訪を丁寧に詫び、國臣が話し始めた。
「先の見えないこの乱世の中で、こうしてあなたに無事お会いできたことを何よりも嬉しく思います」
というと、望東尼はお茶をすすめながら
「旅支度のようですが、何か大変な心配事でも持ち上がりましたか」
と訊いた。
「実は藩命により上洛します。生きては戻れない任務であり、妻は離縁してきました。この世の最期の一時をあなたと過ごしたいと思い、訪ねて来ました。今夜はここに居させて下さい」
意外な言葉に望東尼は動揺したが直ちに國臣の心を知った。
「ありがとう、國臣さん。私のような老尼でよければどうぞお好きなだけここにいて下さい」
と言うと望東尼は立ち上がり、國臣に背を向け自在鉤に掛けた鉄瓶をはずした。お茶を入れ換えるようだ。後ろ姿の肩が震えている。國臣は望東尼の泣く姿を始めて目にした。國臣は後からそっと抱き締めた。望東尼の躰の震えは止まらなかった。
二人は激動する幕末の政治状況について意見を交わしたり、また共通の楽しみである和歌を詠み交わして過ごすことにした。
望東尼の心は激しく揺れていた。長年密かに愛して来た國臣に愛されていると分かった歓喜と、我が身の老いの哀しさ、國臣が近いうちに死ぬであろうという絶望の三つが、胸の奥でせめぎあった。しかしすぐに思い直し決断した。
―― 今夜は、私にとって愛する人と過ごす最初で最後の夜になるであろう。心の望むままに一夜を過ごそう、と。
長い片思いが相思相愛だったと分かったいま、躰が震えるような歓喜は、すべての迷いを消し去った。
「こんな大切な時に私を訪ねていただき嬉しく思います。國臣さん、今宵は、二人で過ごす一刻一刻が仏さまの贈り物のように思われます。お医者さまの見立てでは、私もそう長くはないようです」
「今夜は冷えますね。いろりの火を少し強くしましょう」
望東尼は燠をよけ火の上に薪を二、三本くべた。白い頬に揺らめく炎の影が、涙の跡を浮かび上がらせた。「こんなに美しい人だったのか」と國臣はこころで呟いた。そして愛おしくなりそっと抱きよせた。華奢な躰は國臣の胸にすっかり隠れた。望東尼から香のかおりが漂い、國臣は観音さまを抱いているような幻想にとらわれた。
「國臣さん、今夜は語り明かしましょう。歌も心おきなく詠み交わしましょう」
「ありがとう、望東尼さん。稚拙な私の歌ですがよろしくお願いします」
國臣がまず一首詠んだ
しのびつつ 旅たちそむるこよいとて
山かげふかき やどりをぞする
しのびつつ 旅たちそむるこよいとて
山かげふかき やどりをぞする
望東尼は目を閉じ、國臣の和歌をつぶやくように繰り返した。そしてゆったり返した。
ひとすぢにあかき道ゆく中やどに
かしてうれしき山のあれいほ
ひとすぢにあかき道ゆく中やどに
かしてうれしき山のあれいほ
二つの心がこだまのように響き合う見事な返歌であった。
茶碗を手に取り望東尼が話しはじめた。
「國臣さん、あなたは私の命です。どんなことがあっても生きていて下さい。女は、愛する人に二度と逢えなくても、その人がこの世にいるだけで生きて行けるのです。尼の私も女です。あなたが死んだら私も死にます」
「いけません、仏さまにお仕えするあなたがそんなことをおっしゃっては。どうかあなたは生きてください。そして私の菩提を弔って下さい」
望東尼は國臣の胸にしがみつき泣いた。國臣は泣く子をあやすように望東尼を抱き締めた。望東尼は消え入りそうな声で言った。
「どうぞ離さないで下さい。夜が明けるまで」
夜半すぎ、安心したのか望東尼は國臣の胸の中で眠ってしまった。
「男まさりの女と思っていたが、こんなに無邪気で情け深い人だったのか」
この時國臣は、何としても生きて福岡に帰り、望東尼を喜ばせたいと心に誓った。
國臣は安らかに眠る望東尼を胸に抱いて夜明けを待った。時折り望東尼の顏を覗き、
「かわいい望東尼さん、生まれ変わったら必ず一緒になりましょう」
とささやいた。そして、自分の人生が愛する人を抱き締めたまま終わろうとしている幸運に感謝した。
東の空に彩雲が現れた。と、同時に望東尼が目を覚ました。純白の袈裟の襟元を直しながら
「國臣さん、恥ずかしいわ、こんなはしたない恰好で」
「いいえ、どうぞこのままで。私はあなたを離したくない」
「でも私はそろそろ出立せねばなりません」
望東尼は國臣から離れ居住まいを正した。そして國臣の姿を心の鏡に焼き付けるように彼を見つめ歌を詠んだ。
をしからぬ 命ながかれ
桜ばな 雲居に咲かん はるを見るべく
をしからぬ 命ながかれ
桜ばな 雲居に咲かん はるを見るべく
歌は國臣の心に沁みた。無言で立ち上がり望東尼に一礼すると、刀と連雀をわしづかみにし戸口に向かった。戸を開けると雪が舞い込んできた。
足早に遠ざかる國臣を、望東尼は手を振って見送った。國臣は一度も振り返らなかった。涙を見られたくなかったのである。望東尼は國臣の姿が降る雪にかき消されても立ち尽くしていた。
(後日譚)
上洛した國臣は幕末の動乱に身を投じた。その頃の歌がある。
我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
烟はうすし 櫻島山
我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば
烟はうすし 櫻島山
血がたぎるようなこの歌はその後の悲劇を予感させる。國臣に限らず、当時の尊王派の志士たちは、愛する女のために命がけで生きるより、幕藩体制を壊し新しい国を創ると言う夢に命をかけていた。人生には、好きな女と愛し合って生きることに勝るものなど一つもない。こんなあたりまえの発想がなかった。
最愛の望東尼と別れた翌年、國臣は京都所司代により正当な裁きもなく斬首された。三十七歳だった。その三年後望東尼は病没した。六十一歳だった。辞世の歌が残っている。
雲水のながれまとひて花の穂の
初雪とわれふりて消ゆなり
雲水のながれまとひて花の穂の
初雪とわれふりて消ゆなり
いまわの望東尼は雪空を見上げつぶやいた。
『初雪のようです。死して自由の身となれば、わたくしは雪道のなか、あの人の後姿を追います』
―― 了 ――