平成22年にはまずは同窓生のブログとHPのページでもご紹介しました、合唱部出身で演劇やミュージカルで活躍する52期の穴田有里さんのステージを、同窓の友人を誘って見に行くことをご提案し、何人もの方が実際に参加されました。(「観覧記」はこちらへ)
その後、平成22年の関東支部の総会・懇親会に参加された穴田さんには飛び入りで2曲歌っていただきました。
その後も立て続けにミュージカルに出演されその都度同窓生が見に行くことが実現しました。

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左:中曽根さん(29期)、中央:穴田有里さん(52期)、右:池田志朗(20期)

 「応援しよう!」のページでご紹介しました穴田有里さん(52期)が出演する「川口竜也&穴田有里ジョイントライブ」に行って来ました。
 参加したのは二水関東幹事の中曽根多恵子さん(29期)、西川邦隆さん(23期)およびその仕事仲間、それにweb編集室の私、池田志朗(20期)と奥野拓則さん(20期)、 それに高校は違うのですが、池田の大学時代からの友人である畠山誠さんも加わっての総勢6名で参加しました。

 会場が50人規模でほぼ満席となりましたので、その1割強を占めたことになります!
 2部構成で2時間半のライブは、さすが一線で活躍中のミュージカル俳優の2人ですので、迫力があ りました。
 特に相当高度な音程とリズムもあったのですが、キッチリ歌ってくれました。
 大音量の発声が素晴らしく、一部若々しくも荒削りな印象も持ちましたが、これからの若い人ですから、今からそつなくまとまっているよりずっと好感が持てました。
 西川さん達と奥野さんはライブ終了後すぐに帰りましたが、中曽根さんと私は会場に留まり暫く待って、なんとか穴田さんに会うのに成功しました。

 これまで東京でまったく意識していなかった故郷の高校の同窓会というつながりで、何人もの人が本当に参加したということで、穴田さんは大変感激していました。
 改めて若い世代も含めて、意味を感じられる同窓会のあり方の、手がかりになるのではと感じました。

 それで10月23日のニ水関東同窓会総会と懇親会にお誘いしました。
 それに対して穴田さんは12月1日から始まる「ブロードウェイミュージカル★Into the Woods★」の稽古とぶつからなければ、ぜひ出席したいとのことでした。

なおこのミュージカルの、出演者先行予約が一般発売に先駆けて行われています!
締め切りは 10月11日PM10時です。

穴田有里扱いチケット予約フォームはこちらです。
  http://ticket.corich.jp/apply/23384/115/
こちらからお申込みいただくと自動的に穴田さん扱いとなるそうです。

報告:web編集室 池田志朗(20期)

編集室へのメール送信はこちらmail_button

千田芳江(5期)
千田芳江さんは早くにご主人を亡くされたために、洋裁店を開いて自立され、大変苦労をされた方です。
平成15年に「現代の名工」と呼ばれる卓越技能章受章、平成18年には黄綬褒章受章され、いまも社団法人日本洋装協会会長としてご活躍です。
高校時代文芸部に所属していましたので、お仕事を通じてお感じになったことなど、沢山のエッセイを執筆されており、楽しみにしております。
(紹介者;北村澄江)
◇千田芳江(5期)
(社)日本洋装協会会長
平成18年黄綬褒章受章

 二水高校第5期生の私は、文芸部に所属していました。先輩から「二水文芸」の創刊号と第2号を譲り受け、第3号から第7号までが私の在学中に発行されました。その7 冊を今も私が大切に保管しています。以後ずっと発行されなかったとのことですから、この7冊は、いわば二水文芸の古典と言えるのでしょうか。60年近く経った紙などは、すっかり変色し、頁をめくるのも破れそうで気を使います。
 創刊号は昭和24年9月発行とあります。すべてが不足していた時代に、80ページの文芸誌が生まれました。高校生とは思えぬ軽妙な筆致、高度な内容の文章が掲載されています。私の知る諸先輩の名前も各号に見られて懐かしくおもいます。
 また、毎号必ず諸先生の作品も掲載されていて、一層重厚なものになっているのです。 あの頃の先生と生徒の距離はとても接近していて、教員室にはいつも生徒が出入りして、楽しんでいたものでした。
 戦後の、自由と希望に満ちた二水高校の気風が、この7冊の中に記録されているようです。
  1年生の間は、先輩の編集を手伝うだけで精一杯でした。2年生になって、いきなり第5号の編集の全てを任されました。
 教員室を回って、英語の柏先生、社会科の絹川先生、生物の陶山先生、物理の豊原先生、化学の野村先生などに原稿のお願いをし、お休みの英語の渋谷先生には、アパートまで押しかけてしまいました。
  1年生の坪田さんが、隣家に住んでおられる有名な画家、高光一也画伯に表紙をお願いしましたが、少々後悔もしました。ところが、二日もしないうちに絵が届きました。A4の白い画用紙に、女性の上半身が、裏面に当たるところに女性の下半身がさらっと描かれていました。コメントに、題字は著名な書道家飯田武夫先生にお願いすること、印刷はオフセット印刷、地色は明るい黄色、題字は緑色、用紙は艶のあるもの・・・と。私は改めてことの重大さに気付きました。
 オフセット印刷の何たるかも知らなかった私たちは、彦三2丁目で見つけた印刷店で、その印刷価格の高さに驚きました。予算が足りない。画伯へのお礼はどうしたのか覚えていませんが、おそらくご好意に甘えたのでしょう。本文の印刷はいつもの「きんけい」です。「きんけい」とは「金沢刑務所」のこと、と知ったのもその頃でした。
 神尾さん(橋浦さん)と角本さんと3人で刑務所の門をくぐったとたんに、大きな音で鍵を掛けられ、面会室に通されました。腰に紐を巻きつけた男性に印刷をお願いして、後日校正に二回ほど通いました。発行が10月25日と大幅に遅れ、しかも表紙に予算が取られて年2回の発行が1回になってしまいました。
 全生徒に「二水文芸」が配られた日、教室移動の生徒がみんな黄色い表紙の本を手にして歩いていました。私の胸は達成感に満ち溢れました。それは、編集した他に、もう一つ理由がありました。私が初めてペンネームで書いた小説を載せたのです。

 二水高校創立50周年記念行事の際、創刊号から7号までまとまった冊子を母校にお貸しし、復刻本にして保管してあります。
 60周年の時にはこの7冊を寄贈するつもりでした。でも、やはりまだ手放せずにいるのです。
 つい最近、文芸部顧問板屋先生から今年発行された第44号「二水文芸」を送って頂きました。内容はコンクールで入賞した作品が殆どで、すばらしい活躍ぶりが伺えます。
 文芸部のご健闘をこころからお祈りいたします。

salzburg01 昨年の夏『注文服業者世界大会』がザルツブルグで行われました。
そのとき日本代表として作品を出したのが入賞して、皆様から拍手を頂いています。

隣に写っているモデルは現地のモデルで私の作品を着ています。
青い襟に「いろはにほへとちりぬるを・・」とミシン刺繍を施し、日本の文化を表現しています。

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創刊号昭24年10月10日発行 永野印刷所 金沢市荒町1-17 編集人福島滋 発行人大屋俊郎
第2号昭和25年1月9日発行 きんけい印刷所 編集人福島滋 発行人大屋俊郎
第3号昭和25年7・15日発行 きんけい印刷所  編集人太田真弓 発行人田村博
第4号昭和25年12・15日発行 山越昭和印刷所 市内小将町1 編集人太田真弓 発行人田村博
第5号昭和26年10月25日発行 きんけい印刷所  編集人 発行人太田真弓
第6号昭和27年10月25日発行 きんけい印刷所  編集人坪田典子発行人菅田広
第7号昭和28年3月15日発行 きんけい印刷所   編集人坪田典子発行人菅田広
第44号平成22年3月3日発行宮下印刷株式会社 市内大豆田 編集二水高校文芸部
プロフィール
 私は小学生の頃から服を作っていました。中学では文集クラブ、新聞部、コーラス部、演劇部、バレー部で活躍。高校に入って文芸部だけに絞りました。大学受験に失敗して洋裁学校に方向転換。以来この道を天職にして歩いています。趣味はコーラスと作文。やっぱり同じです。
 来春の美術展にはドレスを出品させていただきます。 「からたちサロン」では「服つくりに生きて」というタイトルのもとに故郷、仕事、趣味などのつれづれお話題を寄稿させていただきます。
松田英世(8期)
 金沢の街を歩くと、昔の場所に帰ってきたとともに、その時代にタイムスリップでき懐かしく、嬉しいものです。
ひょっと立ち寄る昔の建物、中の金沢なまりの人たちと思わず話し込むと、さらに、誰それ誰それと人の縁が感じる。・・・「世の中狭いね・・・」と笑う人も、作者のようにうるさいと感じる人も・・・金沢はオモシロイ
(紹介者 サロンマスター高田敬輔)
◇松田英世(8期)
 放送部NHB出身
「文化の都、金澤」を今も・・

かつて私が暮らしていたころの金沢はうるさい街だった。人間関係が濃密で、噂の 伝播は早く、街を歩けば知人に出会った。
 しかし、もはや金沢を離れて半世紀。私は土地の人にとっては、ただの見知らぬ人に過ぎない。知人に出会うのはまず奇跡だろう。
 先日、ぶらりと金沢を歩いてみた。尾張町の交差点に、やや円い形の白亜の館が あった。 金沢文芸館という看板が出ていた。1階交流サロン、2階五木寛之文庫、3階文芸フ ロア。2階に行くと、案内の男性だけしかいない。
 「どちらからですか?」と案内者。「神奈川県からですが」「遠いところありがとう ございます。昨日、ここに女優の岸恵子さんが来られましてね」と雑談が続く。 「金沢出身なんですよ」と私が言うと、案内者は気を許したのか、ひとしきり五木寛 之の奥さんの絵の話になる。
 作家の高田宏氏のことを聞いてみたら、案内者は知っていた。「石川県にゆかりの ある人で、九谷焼の博物館の館長さんもやっています」と話してくれた。「あの方、 どういう経歴なんですかね?」と案内者。「私が前に勤めていた、エッソ石油の広報 で大仏次郎賞をもらって作家になたんですよ」と私。
 「エッソさんですか? エッソといえば、松野宗純さんに、わたし、かわいがられま してね」と思わぬ言葉が案内者から出てきた。
 エッソ石油で重役になり、退職後、金沢で僧侶になった話題の人だ。
 高校はどこ? という話から、「森喜朗さんの高校ですか?」とだんだんと国勢調 査に近づく。「じゃ、Xさん知ってますか?」と案内者。「X君? 彼とは高校同期 で、放送部でいっしよにやったものです」
 X君は、その案内者がかつて勤めていた紙問屋で長年上司として仕えた人だと言 う。そして案内者は言った、「ご縁ですね」。
 きりがないくらいの人物連関物語が続く。金沢はいまもうるさい街であった。

teinenngo
プロフィール
松田英世;昭和12年生、金石中―二水―金大理学部―エッソ石油―早大文学部
「高校時代は放送部にいました。素敵な女子学生を校内放送で呼び出したり
して遊んでいました。エッソ石油を定年退職後、夜の文学部の学生となりました。
岩波書店発行『定年後』(1999)に“還暦の大学生となって”というタイトルで文学部
生活について書きました。現在は、「金沢文学散歩」を書き貯めていています。
松田英世(8期)
松田英世さん(8期)は放送部で活躍され、長年東京の大手石油会社にお勤めでしたが、定年後、早稲田大学をご卒業。これから連載される金沢のお話が楽しみです。
今回はこの1月急逝された同期生浅川マキさんの追悼も兼ね、エピソードを紹介戴きます。
(紹介者;竹内栄子(8期))
◇松田英世(8期)
 放送部NHB出身
「文化の都、金澤」を今も・・

《わたしが、日劇ミュージック・ホールに出演したのは、一九六九年と七〇年の二回 でいずれも十二月公演であった。・・・わたしは一曲唄い終えると少しだけはなした。「わたしは、役場で国民健康保険の係をしておりまして」 すると、客席は爆笑 する。客席のほとんどは男だったと思う。》(浅川マキの小説 『暗い目をした女 優』より)

  確かに客席は男で埋め尽くされていた。私もその一人だった。たぶん七〇年の公演 だ。 野次が飛んだことも覚えている。「マキッ!」 マキは応じた。「どこのどちら様ですか? 親戚の方ですか?」 男たちは爆笑した。
 黒いドレスをまとった浅川マキは、黒人霊歌とデヴュー曲の「夜が明けたら」を 唄った。

   夜が明けたら一番早い汽車に乗るから
   切符を用意してちょうだい・・・
   今夜でこの街とはさよならね
   わりといい街だったけどね  

 まるで語るようなどすの利いた声で、どこかの街からの出奔を歌っているようだっ た。あるとき雑誌で浅川マキのエッセイが目にとまった。石川県の美川町の役場に勤め ていたころの話だった。同県人であることを知って、彼女との距離が近くなったよう に思えた。
 その数日後、およそNHKとは縁のなさそうな彼女が昼時のテレビ番組に出てい た。あの時そのままの黒いドレスで、「夜が明けたら」を唄った。そして彼女は言っ た。「金沢の二水高校を卒業してから役場に勤め・・・」
 私と同窓生だったとは。しかも後でわかったのだが、私と同期生でもあった。
 浅川マキに手紙を出してみた。すぐに返事がきた。原稿用紙一枚に、書家を思わせ る書体でお礼の言葉が綴られていた。最後に、同期生はおどろおどろしい存在です、 としたためてあった。
 時に、CDで浅川マキを聴く。「わりといい街だったけどね」が金沢のことなのか な? と想像しながら。

◇プロフィール
松田英世;昭和12年生、金石中―二水―金大理学部卒
「高校時代は放送部にいました。素敵な女子学生を校内放送で呼び出したりして遊んでいました。
エッソ石油を定年退職後、夜の文学部の学生となり4年間通学し、大人の会という高齢学生たちの会を創ってコンパもやりました。
岩波書店発行の『定年後』(1999)に“還暦の大学生となって”というタイトルで文学部生活について書きました。
目下、金沢文学散歩をテーマにして、文章教室に通って書いています。」
河合聡 (4期)
河合さんは中学時代骨髄炎のため補装具装着され6年遅れて二水入学、逆境に対して生き抜いた強い精神、その努力に花が咲いて第1回高峰賞を筆頭の成績で受賞されました。
医学薬学分野の研究と教育に貢献され、薬事、環境問題に関して分かりやすい多くの著書を執筆され、今もお元気なことは嬉しいです。
(紹介者;北村澄江)
◇河合聡 (4期)
第1回高峰賞受賞者元岐阜薬科大学教授

 二水同窓会関東支部のみなさん、ご無沙汰しています。

 このほど、新しくできたホームページへの寄稿を高田君から依頼され、高校時代も遠い昔になりましたが、とりあえず私の近況をお知らせします。

 大学卒業後の私の人生遍歴の概要をお話しますと、世田谷区用賀にありました厚生省(当時)所轄の衛生試験所に約10年間勤務しました。
用賀はまだ広々した空き地が広がっていて、一坪1万円の立札を見て、とても手が出ないと目を丸くしていたことを思い出します。
今にして思えば背伸びしてでも買っておけばよかった。ちなみに私の初任給は6600円で生活は苦しく、下宿と試験所との間を毎日行き来するだけの生活でした。

 その後、岐阜薬科大学に赴任して約30年近く勤務しました。退職後、現在の伊豆の山の中で暮らしています。

 なぜ伊豆に来たのか?とよく聞かれます。岐阜は冬寒く夏は暑いところです。退職間近い頃、教室内での雑談の折「贅沢は言わないが、退職後は岐阜より夏は2-3度涼しく、冬は2-3度温かいところで暮らしたい」と言いましたら、たまたま静岡出身の学生がいて、「先生、それは静岡しかないよ」と答えたのです。折も折、伊豆の山間で分譲地を売り出しているというダイレクトメールが舞い込み、冷やかし半分に出かけてみたところ、すっかり気に入ったという次第です。

「ダイヤランド」という愛称で呼ばれる分譲地区は、約4000区画の別荘地です。標高300~500メートルの緑の中に、私のような定住者が住む約600世帯の色とりどりのカラフルな建物が点在しています。

買い物、コピー、郵便局など・・・何をするにも山を降りなければならず、その点は不便ですが、世俗的騒音から逃れた別世界で自分流の生活を楽しむには最高です。

 今年の夏は、伊豆も暑い毎日でしたが、学生が言った通り豊かな自然があり、実に気候の温暖な住みよいところです。

 この山の中で、時代遅れの目で激しく移り変わる社会の姿を見つめていますと、何か大切なものを置き忘れたまま疾走しているような印象を受けています。それは、一口で言えば、能力主義、効率主義のようです。疾走に疲れ果てたとき、何が残るのでしょうか。これでは恐らく道端に咲く可憐な花の美しさは理解できないのではという気がします。

そんな気持をこのたび「老いてこそ輝け」という拙著に託しました。本屋で見かけたらお目通しいただければ幸いです。

 数年前、北村澄江先生と私の一級下の二水の同窓千田芳江さんのお二人がわざわざ訪ねて下さったのはなつかしい思い出です。
みなさんにもどうぞ伊豆にご来遊いただき、語り合う機会が持てることを願っています。

oitekoso
プロフィール: 昭和3年生、諸江小―金商―二水、東大医学部卒、元厚生省国立衛生研究所、元岐阜薬科大学教授

著 書 : 「地球環境の今を考える」丸善(2008年) 
    「暮らしの中から見る地球を蝕む環境問題」東銀座出版社(2007年)
    「もう一度「人間」の不思議を考えよう」西田書店(2008年)
「老いてこそ輝け」新日本出版社(2010年)